伝記
ジョモ・ケニヤッタは、ケニアの初代首相(1963年から1964年)であり、続いて初代大統領(1964年から1978年)を務めた政治家である。生年月日は定かでなく、公式には1893年10月20日とされるが、1889年から1895年までの幅がある。キクユ族の出身で、出生時の名はカマウ・ウェ・ンゲンギといった。ケニヤッタという名は独立運動を始めた際に改めたもので、「ケニアの光」の意味だとされる。徴兵を逃れるためマサイ族のふりをして身につけた「キニャタ」というベルトを気に入って、そこから取ったとする説もある。子供のころはミッション系の学校で教育を受け、ケニア国内での学歴はこの初等教育だけのようである。1913年にキクユ族の成人の儀式を終え、農園労働者や商店の事務員、ナイロビ市の水道局職員などを掛け持ちして働いた。独学で教養を身につけ、キクユ人にもイギリス系住民にも「知識人」と見られていた。
1923年ごろに食料品店の経営を始めたが、もぐりの居酒屋のようなこともしていたので、民族運動家のたまり場となり、1926年にキクユ中央協会の書記として活動に加わった。翌1927年には仕事を辞めて協会の活動に専念する。1929年と1931年に協会の代表として渡英し、植民地省と交渉にあたった。1931年にはガンディーと会見している。そのまま帰国せず、黒人革命家ジョージ・パドモアの紹介でソ連へ渡ってモスクワ大学で経済学を学んだが、得たのは共産主義への不信感だけだったという。1933年にロンドン大学の聴講生となり、ロンドン・スクール・オブ・エコノミクスの研究生として、文化人類学者マリノフスキに師事し、キクユ族の伝統文化を研究した。1938年に欧米で出版された最初のアフリカ人の著作といわれる『ケニア山を望んで』を著し、このとき初めてケニヤッタの名を用いた。1939年からはロンドン大学の教員やイギリス軍の顧問を務めた。
1946年にケニアへ帰国して教員として働き、1947年6月にケニア・アフリカ人同盟の党首に選ばれた。1952年、マウマウ団の乱に関与したとして逮捕された。裁判は5か月に及び、裁判官や通訳の扱いは不当だったとされるが、結果は7年の重労働の刑で、ケニア北西部のロドワーに移された。のちの研究でも、マウマウとの関係はあったとされる一方、異なる説もある。1959年まで刑務所で過ごした。
1963年にケニアが独立すると初代首相となり、翌年に大統領制へ移るとそのまま大統領に就いた。一貫して西側寄りの資本主義体制を保ち、外資を積極的に導入したため、ケニア経済は発展し、東アフリカの地域大国となった。1964年から1970年にかけて、大規模な海外投資と産業はほぼ2倍に増えた。一方で国内では、盟友で弟子でもあったトム・ムボヤ大臣の暗殺を機に反対政党を非合法化し、1969年にはケニア・アフリカ民族同盟だけの一党制を敷いた。自らの出身のキクユ人を優遇し、のちの民族対立の発端になったともいわれる。建国の父として「ムゼー」、すなわち「おじいさん」の愛称で親しまれた。1978年8月22日に死去し、同月31日にナイロビで国葬が行われた。ナイロビの国際空港は彼にちなんで名づけられ、息子のウフル・ケニヤッタも、のちに大統領となった。
同じ年に亡くなった人物
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- ジョゼフ・コロンボ (1978年没)
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- Alexandre Deulofeu (1978年没)
同じ地域に関係する人物
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