伝記
ジョヴァンニ・グロンキは、1887年9月10日にトスカーナ地方のポンテデーラで生まれたイタリアの政治家で、第3代イタリア共和国大統領を務めた。4人きょうだいの一人で、父はパン職人でサラミの販売もしていた。母は彼が6歳のときに亡くなり、収入の少ない父は経理の補助の仕事もして家族を養った。15歳のとき、ロモロ・ムッリが率いるキリスト教民主主義の運動に加わった。高校を出たのち、名門のピサ高等師範学校で学んで卒業した。
1911年から1915年にかけては、キリスト教民主派の活動を続けながら、パルマ、ベルガモ、モンツァの高校で哲学を教えた。第一次世界大戦には歩兵将校として従軍し、前線での功績により武勲章を受けたという。1919年にはルイジ・ストゥルツォが開いたイタリア人民党の最初の会合に参加し、同じ年に初めて代議院議員に選ばれた。ベニート・ムッソリーニの政権が成立すると、初期には産業担当の次官として入閣したが、人民党が政権から退くとともに職を離れた。その後、ストゥルツォの辞任を受けて、ジュリオ・ロディーノ、ジュゼッペ・スパタロとともに人民党を率いる三人の指導者の一人となり、1924年には書記長に就いたとされる。ところが1926年、ファシズムに反対するアヴェンティーノ連合の議会離脱への参加を理由に議員の資格を失い、完全に政界を追われた。その後は実業家として活動した。1941年に最初の妻を亡くし、25歳年下のカルラ・ビッサティーニと再婚して、2人の子をもうけた。
ムッソリーニの政権が倒れると、アルチーデ・デ・ガスペリらとともにキリスト教民主党の結成に加わった。第二次世界大戦が終わった後はボノーミ、パッリ、デ・ガスペリの各内閣で産業商業大臣を務めた。制憲議会の議員となり、1948年からは代議院議員を務め、ファンファーニやドッセッティとともに党の左派の指導者と見られた。1948年に代議院議長に選ばれ、314票を得て164票のフェルディナンド・ターゲッティを退けた。議長としては大西洋条約に強く異議を唱え、ピエトロ・ネンニの社会党との接近も説いて、他の党員とは一線を画したが、そのことで不利になることはなく、再び議長に選ばれた。
1955年、ルイジ・エイナウディの後任を決める大統領選挙で、本命は左派のフェルッチョ・パッリと、キリスト教民主党の候補だった上院議長チェーザレ・メルザゴーラの2人と見られていた。第1回の投票でメルザゴーラが振るわず、党の何人かが候補でないグロンキに票を入れ、その数は第3回投票までに増えた。第4回の投票で、自由主義者らが推す現職のエイナウディの70票に対し658票を得て、大統領に選ばれた。在任は1962年までで、左翼のイタリア共産党や社会党、ネオ・ファシストのイタリア社会運動、王党派が伸びる中での政権運営に苦心し、労働争議や暴動への対処にも追われた。外交でも強い権限を行使しようとし、フランスのドゴール体制に倣った強い行政権を望んだ数少ないイタリアの政治家だったとも評される。任期を終えた1962年から1978年に亡くなるまでは終身上院議員を務めた。1978年10月17日にローマで死去した。
同じ年に亡くなった人物
- ジョルジュ・スペシェ (1978年没)
- Skender Kulenovic (1978年没)
- ボジク・ヨージェフ (1978年没)
- Jean Claessens (1978年没)
- レイモン・ブレーヌ (1978年没)
同じ地域に関係する人物
- ステルヴィオ・チプリアーニ (2018年没)
- クィントゥス・ホルテンシウス (紀元前287年没)
- ヨハネス19世 (ローマ教皇) (1032年没)
- グレゴリオ・アレグリ (1652年没)
- ニーノ・マンフレディ (2004年没)