HISTORICAL PERSON · 1978年没

タマーラ・カルサヴィナ

ロシア出身のバレリーナ。マリインスキー劇場のプリマを務め、バレエ・リュスの中心ダンサーとしても活躍した。ロシア革命後は英国に亡命し、同国のバレエ発展に貢献した。

生涯
1978年没
死亡地
イギリス連邦(バッキンガムシャー / ビーコンズフィールド)
出生地
ロシア連邦(サンクトペテルブルク)
出典
世界地図
イギリス連邦(バッキンガムシャー)

伝記

タマーラ・プラトーノヴナ・カルサヴィナは、1885年3月10日に生まれ、1978年5月26日に没したロシア出身のバレリーナである。ロシア帝室マリインスキー劇場のプリマ・バレリーナを務める一方、ディアギレフ主宰のバレエ・リュスで中心ダンサーとして活躍した。アンナ・パヴロワと並んで20世紀前半を代表するバレリーナとされる。のちイギリスへ亡命し、同国のバレエの発展に大きく貢献した。

サンクトペテルブルクに生まれ、帝室バレエのダンサーだった父プラトン・カルサヴィンの影響で、幼い頃からバレエを志した。家族ぐるみの付き合いがあった元ダンサーのジューコヴァ夫人、次いで父からレッスンを受け、1894年に帝室マリインスキー劇場附属舞踊学校に合格した。上級ではパーヴェル・ゲルトのクラスで学び、規定の18歳に満たない17歳で首席で卒業した。その直前の1902年5月にマリインスキー劇場でデビューし、群舞を経ずにコリフェとして入団して、三年目には第2ソリストとなった。

1905年、血の日曜日事件がロシア第一革命に発展すると、帝室バレエ団でも芸術の自治や給与引き上げを求める運動が起こった。選ばれた12人の代議士の中にはフォーキン、パヴロワ、カルサヴィナもいて、劇場の支配人に嘆願書を出した。要求は通らなかったが、処分は訓告のみで、その後の活動には影響しなかった。1907年には財務省に勤めるワシーリイ・ムーヒンと結婚した。

1909年、ディアギレフがパリのシャトレ座で企画した公演が、事実上のバレエ・リュスの旗揚げとなった。カルサヴィナも参加し、最初の作品『アルミードの館』では脇役だったが、ニジンスキーらと踊ったパ・ド・トロワが高く評価され、翌日の紙面にニジンスキーとともに描かれた。主演のバレリーナが駆け落ちしたため急遽アルミードを演じ、パリの人気を独占して、各国の劇場から出演依頼が殺到した。翌1910年のパリ・オペラ座では、パヴロワの降板により『ジゼル』と『火の鳥』のタイトルロールを踊った。注目されたのは新作の『火の鳥』で、作曲者のストラヴィンスキーは、カルサヴィナの完璧な踊りに満足したという。この「火の鳥」は、パヴロワの「瀕死の白鳥」に匹敵する当たり役とされる。同年に帝室バレエ団のプリマ・バレリーナに昇格しており、その身分を保ったままバレエ・リュスに参加した。大戦前には『薔薇の精』『ペトルーシュカ』などに出演し、ニジンスキーはよきパートナーであった。

1914年、第一次世界大戦の勃発で苦労して帰国し、以後はマリインスキー劇場に専念した。ムーヒンと離婚し、1915年にイギリスの外交官ヘンリー・ブルースと再婚して一児をもうけた。1917年のロシア革命のあとはダンサーの委員会の長となって公演を続けたが、1918年6月に夫と息子とともにイギリスへ亡命し、ロンドンに永住して、ロシアへ戻ることはなかった。

1919年からバレエ・リュスの活動を再開し、『三角帽子』などを踊った。1928年には精神を病んだニジンスキーと15年ぶりに再会したが、記憶を呼び戻すことはできなかった。1931年にバレリーナとしては引退し、イギリスのバレエ団にバレエ・リュスやマリインスキー劇場のレパートリーを伝え、フレデリック・アシュトンやマーゴ・フォンテインらに大きな影響を与えた。自伝『劇場通り』(1929年)なども英語で著し、1946年から1955年にはロイヤル・アカデミー・オブ・ダンシングの副会長も務めた。1951年に夫を失ったが再婚せず、1978年にベコンズフィールドで死去した。

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