伝記
ペドロ・アルヴァレス・カブラルは、ポルトガル王国の貴族で軍人、探検航海者であり、ブラジルを「発見」したヨーロッパ人として知られる。1467年か1468年に、ポルトガル中部で生まれたとされ、1467年である可能性が高いという。前半生には不明な点が多いが、下級貴族の出身で、比較的高度な教育を受けたと考えられている。父の名はフェルナン・アルヴァレス・カブラルで、五男六女のきょうだいがあった。受洗時の名はペドロ・アルヴァレス・デ・ゴヴェイアだったが、1503年に兄の一人が没して以降、父方の姓を名乗るようになったと推測される。カブラルは山羊を意味する語に由来し、家の紋章には二匹の山羊が描かれていた。
1479年、12歳頃にアフォンソ5世の宮廷に送られ、人文科学や武芸を学んだ。1484年6月30日には、ジョアン2世から若年貴族の称号を与えられた。1497年にはマヌエル1世が年金を決め、貴族の称号を与えてキリスト騎士団への加入も決めた。教養が深く礼儀正しく、思慮深く、敵味方に寛容だったが、やや虚栄心が強く、周囲の評価を気にしすぎる面があったという。
1500年2月、ヴァスコ・ダ・ガマに続き、インドへの遠征艦隊の総指揮官に任じられた。狙いは貴重な香辛料を持ち帰ることと、アラブ人やオスマン帝国、イタリア商人を通さず香辛料貿易を行う航路を確立することにあった。辞令には「功績あり忠勤なるにより」とあるだけで、選ばれた理由は伝わらない。歴史学者のグリーンリーは、王が把握していたのは宮廷での様子だけで、一族が王室に忠実だったことが重要だったと論じる。ニューイットは、宮中の貴族派閥の均衡をとるためで、他に大規模遠征を率いられる者がいなかったからだとする。経験不足を補うため、バルトロメウ・ディアスら熟練の航海士が副官につけられた。艦隊は13隻、乗組員1,500人で、兵士700人の大半は軍事経験のない平民だった。カブラルは私費でコショウ30トンを買い、免税で持ち帰る権利を与えられた。
1500年3月9日にリスボンを出航し、カーボベルデ諸島に着いた翌日、一隻が150人の乗組員とともに消息を絶った。艦隊はアフリカを離れて西へ進み、4月21日に海藻が見つかり、翌22日、今日のブラジル北東部の岸辺に錨を下ろした。停泊地付近の山は、復活祭の週だったことにちなんで名づけられた。カブラルはこの地を大きな島と考え、トルデシリャス条約によるポルトガルの領分だったため、王の所領と宣言した。海岸沿いに探った結果、大陸の一部らしいと分かり、1隻を急派して報告させた。
艦隊はインドへ向かったが、南大西洋の嵐で船を失い、モザンビーク海峡で落ち合えたのは6隻だけだった。カリカットで交易権の交渉に成功したものの、アラブ商人が反発して商館を襲撃させ、多数の死傷者が出た。カブラルは報復として商人の艦隊を掠奪し、関係都市に砲撃を加えた。コーチン王国では統治者と友誼を結び、香辛料を積んで帰り、その利益はポルトガル王室の財政に大いに資した。のち、強化した艦隊の編成をめぐってマヌエル1世と対立して任を外され、隠居して1520年に没した。晩年の様子はほとんど記録が残っていない。その業績は没後300年ほどのあいだに大半が忘れ去られたが、19世紀にブラジルが独立すると、ペドロ2世によって再び顕彰された。彼がブラジルの発見者といえるか、その発見が偶然だったかについては、歴史学者の間で長く論争が続いている。
同じ年に亡くなった人物
- ミケル・シトウ (1520年代没)
- マルティン・ヴァルトゼーミュラー (1520年没)
- ボッカチオ・ボッカチーノ (1520年代没)
- アゴスティーノ・キージ (1520年)
- ウイリアム・ダンバー (1520年)
同じ地域に関係する人物
- フェルナンド2世 (レオン王) (1188年没)
- マリア・デ・ジェズス (2009年没)
- マリア・ダ・アスンサオン (1835年没)
- ロマーニャ侯爵 (1811年没)
- ドゥアルテ1世 (ポルトガル王) (1438年没)