伝記
ドゥアルテ1世は、1391年10月31日に生まれたポルトガル王で、1433年から1438年まで在位した。父はジョアン1世、母はランカスター公ジョン・オブ・ゴーントの娘フィリパで、三男として生まれたが、長兄アフォンソの死によって王位継承者となった。名は母方の祖父であるイングランド王エドワード3世にちなむとされる。文化への関心と著作から、雄弁王や哲人王とも呼ばれた。エンリケ航海王子を描いたとされる肖像画は、実はドゥアルテ1世を描いたものだとする説も近年出ている。
幼いころから父の政務に付き添い、1412年には正式に統治への参加を認められて、司法と財政を扱った。兄弟とともに父を説得してセウタの攻略に加わり、そこで弟のペドロ、エンリケとともに父から騎士に叙されたという。1428年にはアラゴン王フェルナンド1世の娘レオノールと結婚し、9人の子をもうけたが、成人したのは5人だった。長男は後のアフォンソ5世で、次男フェルナンドはマヌエル1世の父となり、長女レオノールは神聖ローマ皇帝フリードリヒ3世の皇后で、皇帝マクシミリアン1世の母となった。王位に就いたときには42歳近くで、すでに21年の統治経験があった。
治世は5年と短かったが、父の海洋進出とアフリカ遠征、王権集中の路線を引き継いだ。1433年にはマデイラ諸島が弟エンリケに与えられた。エンリケはラゴスに拠点を置いて航海を指揮し、1434年にはジル・エアネスが、船乗りに恐れられた伝説的なボジャドール岬を越えた。その後も探検は進み、1436年にアフォンソ・ゴンサルヴェス・バルダイアがリオ・デ・オーロに達した。王は財産を守るためにレイ・メンタル法を公式に適用し、5年間に約5回コルテスを開いて合意を重んじた。即位の初めにコルテスが、同意なしに戦争をしないよう求めたのに対し、王は戦争は王のみの意思に属すると答えた。1433年のコルテスでは貴族に毅然と接し、聖職者の権力乱用を抑えたという。法の整備のためにはルイ・フェルナンデスを指名し、この作業が後のアフォンソ法典となった。
1437年、弟のエンリケとフェルナンドに説得されて、王はモロッコのタンジェ攻撃に踏み切った。ペドロとジョアンは反対だった。遠征は失敗に終わり、弟フェルナンドは、セウタ返還と引き換えの人質としてアラブ側に留め置かれた。議会がこの返還に難色を示したため交渉は進まず、王は救出の手立てがとれないことに精神的に追いつめられ、当時流行していたペストにかかって1438年に世を去った。当時は法の改訂を準備していた最中だった。フェルナンドは後に虜囚のまま没した。1438年にはセウタをどうするかを決めるためレイリアでコルテスが開かれ、王は意見に耳を傾けたという。タンジェの失敗は治世で唯一の汚点とされるが、王の責任ではないとも評される。
王は遺言で、6歳の息子アフォンソの摂政を王妃レオノールに託したが、民衆には好まれず、家族の間でも誰が摂政になるかをめぐって不和が生じた。文化を愛した王は、『忠実な助言者』と『あらゆる鞍での馬術の教え』の2作を著し、王妃にも文学作品を捧げた。遺体はバターリャ修道院の未完成礼拝堂にレオノールとともに葬られている。
同じ年に亡くなった人物
- マハー・テーヴィ (1438年)
- カレル・ファン・エフモント (1438年没)
- ヤコポ・デッラ・クエルチャ (1438年没)
- アシュラフ・バルスバーイ (1438年没)
- リシャール・デタンプ (1438年没)
同じ地域に関係する人物
- フェルナンド2世 (レオン王) (1188年没)
- マリア・デ・ジェズス (2009年没)
- ペドロ・アルヴァレス・カブラル (1520年没)
- ディニス1世 (ポルトガル王) (1325年没)
- エンリケ1世 (ポルトガル王) (1580年没)