伝記
トロフィム・デニーソヴィチ・ルイセンコは、1898年9月29日、現在のウクライナ中部ポルタヴァ地方のカルロフカ村に、農民の子として生まれたソビエト連邦の農学者・生物学者である。のちにスターリンの支持を得て、メンデル遺伝学を排斥する「ルイセンコ学説」を国家公認の教義へと押し上げた人物として知られる。両親はデニス・ニカノロヴィチとオクサナ・フォミニチナで、ほかに二人の息子と一人の娘が生まれた。文字の読み書きを覚えたのは13歳のときだったという。1913年に農村の2年制学校を終えてポルタヴァの園芸の下級学校に入り、1917年にウマニの園芸中等学校に進んで1921年に卒業した。
1922年にキエフ農業大学に入り、学びながらベロツェルコフスクの試験場で園芸植物の育種に携わった。1923年にはトマトの育種法やテンサイの接ぎ木に関する最初の論文を発表し、1925年に農学の学位を得て卒業した。同年10月、ヴァヴィロフが率いる研究所に属するアゼルバイジャンのギャンジャの育種試験場へ派遣された。課題は、春先の家畜の飢えを防ぎ、土壌を肥やすために豆類を導入することだった。当初ヴァヴィロフは彼を支持し、励ました。冬のあいだにエンドウを育てることに成功したと発表すると、ソ連の新聞「プラウダ」に称賛された。まもなく研修生の一人アレクサンドラ・バスコヴァと結婚している。
植物の生育と熱の関係にも関心を持ち、植物は生涯にわたって一定量の熱を必要とすると考えた。しかし実際の熱を測るのでなく、成長量や日数、気温から数字を出したため、統計の扱いに誤りがあった。熱による植物の発育の専門家マクシモフに指摘されたが、批判を受け入れず、数学は生物学に無用だと言い放ったという。1929年にはオデッサの選択遺伝研究所に移った。ここでの活動で唱えた独自の遺伝学説はスターリンに支持され、急速に勢力を伸ばした。1936年から所長となり、正統派の遺伝学者と激しい論争を戦わせ、1939年にソ連科学アカデミー会員となって、同年の討論会で決定的な勝利を収めた。1940年からは同アカデミーの遺伝学研究所の所長を1965年まで務め、遺伝学の側に立った学者たちは、逮捕、追放されるか、転向を余儀なくされた。1940年に「ブルジョア的エセ科学者」として解職・逮捕されたヴァヴィロフは、1943年に栄養失調のため獄死した。
ルイセンコは、春化処理(ヤロビ農法)や綿の芽掻き、夏のジャガイモ植えなどを提唱した。春化処理は一定の品種に有効な場合があるとして、「バーナリゼーション」の名で園芸用語になった。一方、多くの農法はソ連で導入が進むなかでも批判され、実行の結果ソ連農業に大きな被害を与えたとされる。この学説は戦後の中国や北朝鮮の農業にも取り入れられ、被害を出した。
スターリンの死後、スターリン批判で権威は低下したが、フルシチョフを取り込んで一時は巻き返した。しかしフルシチョフが解任されると、1965年に遺伝学研究所の所長職を失った。ただ研究室を率いることは許され、集団農場での人気は続いた。1964年には物理学者サハロフが科学アカデミー総会でルイセンコを声高に非難した。DNAの構造と機能が解明されるにつれ、支持者はいなくなっていった。ルイセンコはレーニン勲章を8回、スターリン賞を3度受けている。1976年11月20日、モスクワで死去し、クンツェボ墓地に葬られた。
同じ年に亡くなった人物
- ジョージ・パーカー (1976年没)
- クヌーズ (デンマーク王子) (1976年没)
- リチャード・ヒューズ (1976年没)
- Gertrude Gabl (1976年没)
- ジョン・エインズワース=デービス (1976年没)
同じ地域に関係する人物
- アンドレイ・コルモゴロフ (1987年没)
- Trofim Lomakin (1973年没)
- ヴィタリー・プリマコフ (1937年没)
- コンスタンチン・シーモノフ (1979年没)
- ヴェリコ・カディイェヴィッチ (2014年没)