伝記
コンスタンチン・ミハイロヴィッチ・シーモノフは、1915年11月28日(ユリウス暦では11月15日)にロシア帝国のペトログラードで生まれ、1979年8月28日にモスクワで没したソ連の作家である。戦争を題材にした詩人としても知られ、最も人気のある詩は『待っていてくれ』で、大祖国戦争の中で兵士が恋人に帰りを待ってほしいと願う内容である。この詩は、のちに妻となるウクライナ出身の女優ワレンチナ・セローワにささげられた。
父ミハイル・アガファンゲロヴィッチ・シーモノフは帝政軍の士官で、ロシア革命後に国外へ移り、ポーランドで客死した。母アレクサンドラ・レオニードヴナ・オボレンスカヤは、リューリク朝の流れをくむオボレンスキー家の公女であった。母は1920年代初頭に赤軍の将校と再婚し、少年期はその継父の勤務にともなってリャザンやサラトフで過ごした。七年制の基礎教育を終えた1930年に職業学校に入って旋盤工の技術を学び、1931年に家族とともにモスクワに移った。精密工学の課程を修め、1935年まで工場に勤めたが、同じ頃に詩を書き始めた。1936年には文芸誌に詩が載り、1938年にモスクワのゴーリキー文学大学を卒業した。その後、大学院に進んだものの、モンゴルのハルハ河での戦いに記者として派遣され、翌年まで戻らなかったという。
1940年に最初の戯曲を書き、1941年に二作目を発表した。1941年6月22日、戦争の初日に従軍記者となり、7月20日からは新聞『赤い星』の従軍記者として働いた。1942年にソ連共産党に入党し、同年に戦闘部隊の上級政治将校に昇進、1943年に中佐、戦後は大佐となった。従軍記者として各戦線に赴き、ユーゴスラビア、ルーマニア、ポーランド、ブルガリア、ドイツなどを訪れ、ベルリンの戦いも目撃した。戦時中には小説『昼となく夜となく』、戯曲『ロシヤの人々』などを発表して絶賛された。詩集『君とともに、君なしで』や『戦争』も世に出し、妻となるワレンチナにささげた詩は前者に収められた。戦後は戯曲『プラーグの栗並木の下で』『ロシヤ問題』、エッセイ『ユーゴスラヴィアの手帖』などを発表した。
戦後は三年間、数々の外国任務につき、日本やアメリカ、中国で暮らした。1958年から1960年はタシケントに住み、党機関紙の中央アジア特派員を務めた。1952年に最初の長編小説『戦友たち』を発表し、1959年には最も長い長編『生者と死者』を発表している。1961年には戯曲が現代劇場(ソヴレメンニク)で上演された。1963年から1964年には『兵士は生まれない』を書き、1970年から1971年にその続編『最後の夏』を書いた。
戦後の公的な経歴は三つに分かれる。1946年から1950年と1954年から1958年は文芸雑誌『新世界』の編集長、1950年から1953年は週刊紙『文学新聞』の編集長を務めた。また1946年から1959年と1967年から1979年にはソ連作家同盟の書記を務め、その要職にあった。社会主義労働英雄、赤旗勲章、祖国戦争勲章、レーニン賞、レーニン勲章、スターリン賞など、数多くの賞を受けている。
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