伝記
レーモン・クノーは、1903年2月21日、ノルマンディー地方のル・アーヴルに、オーギュスト・クノーとジョゼフィーヌ・ミニョの一人息子として生まれたフランスの詩人・小説家である。1919年にラテン語とギリシア語のバカロレアを、翌年に哲学のバカロレアを取得し、1921年から2年間ソルボンヌ大学で文学と数学を学んで、哲学と心理学の学士号を得た。1925年から1926年までは兵役に就き、アルジェリアとモロッコでズワーヴ兵を務めた。1928年にジャニーヌ・カーンと結婚し、1934年に一人息子のジャン=マリーをもうけた。この結婚生活は、1972年にジャニーヌが亡くなるまで続いた。
1924年からシュルレアリストの会合に加わっていたが、自動記述などの方法を用いたことはなく、彼らの極左的な政治方針にも賛同しなかった。早くも1926年には、シュルレアリストのスターリン礼賛を問題にしている。1929年にブルトンが妻シモーヌと離婚した際、ブルトンは友人たちにシモーヌと会うことを禁じたが、シモーヌはクノーの妻ジャニーヌの姉だった。クノーは義姉に会うのを他人に禁じられるいわれはないとして指示をはねつけ、ブルトンに絶交を言い渡した。1930年には、バタイユ、レリス、プレヴェールらとともにブルトンを攻撃する文書『死骸』を公にして、決別を宣言した。この内幕は1937年の『オディール』に小説の形で描かれている。
1932年のギリシア旅行中に処女作『はまむぎ』を書き上げた。たまたま手元にあったデカルトの『方法序説』を、現代の話し言葉で書いたらどうなるかという着想に基づく作品である。1933年に発表されたが、のちのヌーヴォー・ロマンの先駆となる前衛的な内容ゆえか、文壇には黙殺された。憤慨したバタイユやレリスら13人の友人は、マルローの『人間の条件』がゴンクール賞を受けたのと同じ日に、老舗カフェ「ドゥ・マゴ」でクノーのためだけの賞を新設し、一人100フランずつ出し合った賞金1300フランを贈った。これが、のちにゴンクール賞と並ぶ権威を持つようになったドゥ・マゴ賞の始まりである。『はまむぎ』は全7章で、1章が13節からなり、計91節となる。この91は1から13までの自然数の総和で、クノーは作品の諸要素があらかじめ決められているべきだと考えた。
1938年にガリマール社に入社し、生涯の大部分をその社員として過ごした。1956年からは『プレイヤード叢書』の編集主幹を務めている。1950年にコレージュ・ド・パタフィジックに参加し、1951年にはゴンクール・アカデミーの一員となった。1953年には、エイモス・チュツオーラの『やし酒飲み』のフランス語訳を刊行している。一般の注目を集めたのは、1959年の『地下鉄のザジ』である。口語を多用し、正書法から離れた実験も行ったこの作品は、翌1960年にルイ・マルが映画化し、ヌーヴェルヴァーグの先駆けとなった。『文体練習』は、ある男が同じ人物を一日に二度見かけるという単純な物語を、99種類の異なる文体で描いた作品である。1960年に発足したウリポでは師範格として様々な文学的実験を行った。1948年にはフランス数学会に会員登録し、現代数学の動向にも終生関心を持ち続けた。1976年10月25日、パリで73歳で亡くなった。
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