伝記
朱徳は、1886年12月1日、現在の四川省南充市儀隴県で、客家とされる小作農の貧しい家に生まれた。一家の15人の子のうち育ったのは8人だけであった。しかし、才気のある甥をかわいがった伯父の朱世林が教育の機会を与え、これがその後の人生に大きな影響を与えた。私塾から学校へ進み、成都の高等師範学校を卒業して体育の教官となった。そのころ、地下結社の哥老会にも加わっている。
1909年に雲南省の軍事学校である雲南陸軍講武堂に入学し、60年以上に及ぶ軍歴が始まった。この年に孫文の中国同盟会に参加し、翌年に新軍の少尉となった。1911年には蔡鍔将軍の下で辛亥革命に加わり、1915年の護国戦争にも参加した。蔡鍔が四川の長官となると旅団長に昇った。しかし、蔡鍔と最初の妻を相次いで失ったあと、重いアヘンの習慣に苦しんだ時期があり、1922年に上海で治療を受けたという。1921年ごろに国民党系の軍を辞めたのは、雑誌「新青年」を愛読し、革命の進み方に疑問を抱いたことが背景にあるといわれる。
1922年に上海で孫文に会い、革命には軍閥との共闘でなく独自の軍隊が必要だと説いたとされる。中国共産党への入党を申請したが、国民党軍で名を知られていたため、李大釗は難色を示した。朱徳は失意のうちにドイツへ渡って社会主義理論を学び、そこで周恩来と出会い、翌1923年に周恩来の口添えで入党が許された。党史では1922年の申請時から党員とされる。ドイツでは労働運動に加わって官憲に捕らえられ、放校された。1925年にソ連に移り、モスクワ中山大学で軍事を学んだ。教官に提出したゲリラ戦のレポートは緻密なものだったという。
1927年8月1日の南昌蜂起を指導した。蜂起は失敗に終わったが、その後は紅軍の主要な指導者の一人となり、1928年に紅軍第四軍の軍長を務めた。そのころ井崗山で毛沢東とともに、「敵が進めば我は退き、敵が休めば我は撹乱し、敵が疲れたら我は打ち、敵が退けば我は進む」という十六字訣に象徴される、ゲリラ戦術の基本戦略を打ち立てた。長征では張国燾らとともに別働隊を指揮したが、張国燾が北進に反対して指揮権を奪い、朱徳も行動を共にせざるを得なかった。1936年10月、甘粛省で党中央と合流した。1937年に日中戦争が始まり第二次国共合作が成立すると、八路軍総司令に就任し、国共内戦では人民解放軍総司令を務めた。
1949年に中華人民共和国が成立すると、中央人民政府副主席などに選ばれた。1955年に元帥の階級を授かり、十大元帥の首席となった。1959年には全国人民代表大会常務委員長となった。党では毛沢東、劉少奇、周恩来らとともに最高首脳に列したが、政治的に目立った指導力は示さなかった。文化大革命が始まると、1966年に党副主席の職を解かれて序列も下がり、翌年には林彪、江青らから「大軍閥」と攻撃された。1973年に政治局常務委員に復帰し、1975年1月に国家主席制が廃止されると、国家元首格の立場となった。1976年7月6日、北京で89歳の生涯を閉じた。
毛沢東とは同じ農村の出身で、「朱毛」と並び称され、終生変わらぬ友情を保ったとされる。井岡山の革命博物館には二人の像が並び、かつての人民元100元紙幣には朱徳の肖像も描かれた。