伝記
モリエールとして知られるジャン=バティスト・ポクランは、1622年1月15日に生まれ、1673年2月17日に没したフランス・ブルボン朝時代の俳優・劇作家である。ピエール・コルネイユ、ジャン・ラシーヌとともに古典主義の3大作家の一人とされる。悲劇には多くを残さなかったが、鋭い風刺を効かせた数多くの喜劇を制作し、フランス古典喜劇を完成させた。自筆原稿や手紙は見つかっておらず、生涯、とりわけ青年期には不明な点が多い。
パリのサントノーレ通りの家に、富裕な商人ジャン・ポクランと母マリー・クラッセの長男として生まれた。ポクラン家は代々商業を営み、祖父の代からは室内装飾業者であった。教育については同時代人の証言が食い違うため、本当のところはよくわからない。一説では、1631年ころにジェズイット派のコレージュ・ド・クレルモンに入学し、同年に父が「王室付き室内装飾業者」の肩書を買い取った。1632年に母が亡くなった。母方の祖父ルイ・クラッセは芝居好きで、一流のブルゴーニュ劇場に桟敷を持ち、少年を度々連れて行ったという。このような環境が劇作家としての基盤になったとされる。1640年ころに学校を卒業してオルレアンの大学で法律を学び、1643年に弁護士の資格を得た。このころ女優マドレーヌ・ベジャールに出会ったようである。
父の跡を継ぐつもりであったようだが、次第に心変わりして家業を断念し、世襲の権利を弟に譲って演劇の世界で生きる決意を固めた。マドレーヌへの恋心が理由とする説もある。1643年1月3日に父へ世襲権の放棄を書面で伝え、母の遺産の一部630リーヴルを劇団の費用として支払うよう求めた。決意は変わらなかった。同年6月30日に劇団「盛名座」を結成し、マドレーヌが座長格、モリエールが副座長格となった。俳優としての実績があったのはマドレーヌだけで、残りは素人であった。1644年1月1日にパリで興行を始め、初めはマドレーヌの人気で客を集めたが、改装で多額の借金を負った。悲劇ばかり上演してブルゴーニュ劇場に対抗できなかったことも一因とされる。
モリエールは金策に奔走したが、退団者が出た。1645年に座長格となったものの財政難は深刻で、4月に債権者に訴えられ、劇場は差し押さえられて活動停止に追い込まれた。同年8月2日には142リーヴルの借金のために劇団の代表として投獄された。父が保釈金を出して数日で出獄できたが、団員は新加入を含めて7人となり、借金のためパリにいられなくなってボルドーへ赴いた。13年に及ぶ南フランス巡業の始まりである。エペルノン公の庇護を得て、その所有するデュフレーヌ劇団と合併し、盛名座は解散した。
巡業では1647年にトゥールーズで公演し、各地を回った。1650年にペズナスで議会の会期中に3か月の契約で興行し、謝礼4000リーヴルの受取書が残るため、このころ座長に就いたらしい。同年に公の庇護を失い、リヨンに拠点を据えた。劇団には、のちにモリエールの妻となるアルマンド・ベジャールが子役として入った。1652年末にはリヨンでコルネイユの『アンドロメード』を上演し、その舞台装置は後の『ドン・ジュアン』や『プシシェ』に影響を与えた。のちに看板女優となるカトリーヌ・ド・ブリーやマルキーズ・デュ・パルクも加わった。1653年にはコンティ公の招きでペズナスへ赴いて庇護を獲得し、1655年には初の本格的な自作の喜劇『粗忽者』を上演した。パリへの帰還後に大成功を収め、劇団は国王の寵愛を受けるまでになり、この劇団がコメディ・フランセーズの前身となった。
同じ年に亡くなった人物
- ウジェーヌ・モーリス・ド・サヴォワ=ソワソン (1673年没)
- ミハウ・コリブト・ヴィシニョヴィエツキ (1673年没)
- ダルタニャン (1673年没)
- Robert Moray (1673年)
- マーガレット・キャヴェンディッシュ (1673年没)
同じ地域に関係する人物
- ラウル・ルイス (2011年没)
- ジュリアン・デュプレ (1910年没)
- ジャック・ダヴィ・デュペロン (1618年没)
- ジョルジュ・マルシェ (1997年没)
- アントワーヌ・ベルマン (1991年没)