伝記
イサベル1世は、1451年にカスティーリャ=レオン王国の王フアン2世と、その2番目の妻でポルトガル王族のイサベル・デ・ポルトゥガルの長女として生まれた。3歳の頃に父が崩御すると、異母兄のエンリケ4世によって母や弟アルフォンソとともに追放され、不遇な少女時代を送った。母は生活のために精神を患い、親子は苦労を強いられた。のちに、子に恵まれなかった兄王に女児フアナが生まれたが、その父親が誰かという疑惑が生じ、王位継承問題が起こった。カスティーリャ貴族の一部はエンリケ4世を見限り、異母弟妹のイサベルとアルフォンソを次の国王に据えようとした。1464年にアルフォンソにアストゥリアス公の称号が贈られ、国王として推戴する動きもあったが、一国に2人の君主がいる状況は内乱を招き、1468年にアルフォンソが死去して終わった。アルフォンソの支持者はイサベルを王に据えようとしたが、彼女は「兄が生きている間は他の王を戴くべきではない」と拒んだ。
イサベル自身もポルトガルに嫁がされようとしていたが、その危険を事前に察知し、結婚相手としてふさわしいのは、地中海に領海権を持つアラゴン=カタルーニャ王国の王子フェルナンドだと結論した。両家はともにトラスタマラ家の同族で、二人はカスティーリャ王フアン1世を曾祖父とする又従姉弟であった。二人は密かに会って結婚し、国内問題に取り組んだ。1474年にエンリケ4世が没すると、イサベルは夫と共同で王位に就いた。1476年3月には、王位継承問題に介入してきたポルトガル王アフォンソ5世(フアナの夫)に勝利し、1479年9月に条約を結んでカスティーリャの王位継承権を放棄させた。同年1月にはフェルナンドも父の崩御に伴ってアラゴン王位を継ぎ、カスティーリャ=アラゴン連合王国、すなわちスペイン王国が成立した。
1492年1月、南部に残っていたイスラム国家グラナダ王国を制圧し、約800年にわたったレコンキスタを完成させた。この間イサベルは戦場を奔走する夫を信頼し、軍資金や物資の調達に尽力した。グラナダ陥落までの3年間(9か月とも)、願掛けとして下着を替えなかったといわれ、これにちなんで、茶色がかった灰色を指すイサベル色という色が生まれたとされる。1496年にはローマ教皇アレクサンデル6世が二人の偉業を讃え、「カトリック両王」の称号を授けた。イサベルはコロンブスの新大陸進出にも援助を与えた。熱狂的なカトリック教徒であった彼女は、他宗教の民衆を追放し、改宗した者にもたびたび異端審問を行って、財産の没収や追放、処刑を行った。
子供たちは各国の王族と政略結婚をしたが、多くは不運な人生を歩んだ。1497年にはハプスブルク家と二重の結婚を行ったが、王太子フアンは結婚後まもなく夭折し、次女フアナはフィリップ美公との夫婦関係に苦しんで後に精神を病んだ。長女イサベルは再婚後に産褥死し、その遺児ミゲルも1500年に夭折したため、次代の王位はハプスブルク家に受け継がれることが確定的になった。1501年11月には末娘カタリナがイングランドのアーサー王太子と結婚するが、翌年4月に死別した。1504年11月26日、メディナ・デル・カンポの王宮で世を去り、遺体は遺言に従いアルハンブラ宮殿の聖フランシスコ修道院に埋葬された。その後1521年に、孫のカルロス1世の命でグラナダの王室礼拝堂に移された。カスティーリャ女王の地位はフアナが継ぎ、1516年にフェルナンドが崩御すると、孫のカルロスが後継者となった。
同じ年に亡くなった人物
- ループレヒト・フォン・デア・プファルツ (1504年没)
- Patriarch Joachim I of Constantinople (1504年没)
- エーバーハルト2世 (ヴュルテンベルク公) (1504年没)
- Husain Waiz Kasifi (1504年没)
- フェデリーコ1世 (ナポリ王) (1504年没)
同じ地域に関係する人物
- アルバロ・デ・ルナ (1453年没)
- レケスウィント (672年没)
- レオノール・デ・アルブルケルケ (1435年没)
- マリア・フォン・エスターライヒ (1558年没)
- マリア・マヌエラ・デ・ポルトゥガル (1545年没)