HISTORICAL PERSON · 1973年没

フルヘンシオ・バティスタ

キューバの軍人・政治家。二度大統領を務め、親米政権を樹立した後に独裁を敷いたが、キューバ革命で失脚して亡命した。

生涯
1973年没
死亡地
スペイン王国(マラガ県 / マルベーリャ)
出生地
キューバ(バネス)
出典
世界地図
スペイン王国(マラガ県)

伝記

フルヘンシオ・バティスタは一九〇一年、米西戦争後に米国の軍政下にあったキューバのバネスに生まれた。貧しい家庭に育ち、クエーカー教徒の学校で初等教育と英語を学んだ。若い頃は使い走り、仕立てや理髪の見習い、果物や石炭の販売、鉄道や港湾、サトウキビ畑の仕事などを経験した。高校を出た後、一九二一年にキューバ陸軍へ入隊し、軍では速記を身につけて参謀部の速記軍曹にまで進んだ。ムラート、中国系、先住民系の出自とみられている。軍曹だったバティスタは一九三三年の軍曹反乱を主導し、臨時政府を倒した後、ラモン・グラウ大統領からの入閣要請を断り、軍参謀総長に就いた。その後しばらく大統領職には就かなかったものの、軍を通じて政局を左右する立場を保った。一九三六年には国防相兼軍総司令官となり、政府の実権を握った。ゴメス大統領が拒否権を発動すると、議会を動員して罷免に追い込み、副大統領を大統領に昇格させた。

一九三八年、バティスタ政権は共産党を合法化し、対立していた真正革命党との共闘を図った。一九三九年の選挙では、彼が率いる自由党と共産党の連合が野党連合に敗れたが、翌年の総選挙でラモン・グラウを破り、大統領に当選した。新憲法が公布された後、一九四〇年に就任し、第二次世界大戦中の四年間を務めた。戦時には連合国を支援した。一九四四年の選挙では、彼が推したカルロス・サラドリガスがラモン・グラウに敗れた。結果を受けてフロリダへ渡り、政界の第一線を離れた。だが一九四八年にはキューバの上院議員に当選して政界へ戻り、一九五〇年には帰国して単一行動党を結成した。

次の大統領選への支持が広がらないと見ると、一九五二年三月、軍事クーデターを起こしてカルロス・プリオ大統領を退陣させ、自ら大統領に就いた。一九四〇年憲法を停止し、選挙と議会を無効にして、政治的自由やストライキの権利を抑える独裁体制を築いた。米国政府や米国企業、カジノ経営時代の仲間だったマフィアの利権を守る一方、農業や工業には米国資本が入り、富の偏りも広がった。この状況に反発した弁護士フィデル・カストロらは、一九五三年にモンカダ兵営を襲撃したが失敗し、攻撃側にも多数の死者が出た。逮捕されたカストロは十五年の刑を言い渡された。その後メキシコに亡命していたカストロは、一九五六年、亡命者たちとヨット「グランマ号」でキューバに戻り、七月二十六日運動を進めた。

反乱軍への民衆の支持は広がり、バティスタは一九五八年、十七個大隊を投入したが、政府軍では兵士の離脱が続いた。反乱軍はヤグアハイやサンタ・クララなどの戦闘で勝利し、政権の敗北が決定的になった。一九五八年十二月三十一日の夜、ハバナの兵営での新年祝賀の席でバティスタは突然辞任を表明し、翌年元日未明にキューバを脱出して、ラファエル・トルヒーヨが支配するドミニカ共和国へ亡命した。かつての支持者から七百万ドルを超える献金を受け、その後はポルトガルで回顧録を書き、スペインでは投資も行った。キューバへ戻ることなく、スペインのマルベーリャ郊外で心臓病により一九七三年八月六日に死去した。弾圧的な統治は、かえって反対運動を広げる契機になったとされる。

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