伝記
P・ラムリーは1929年、マレーシアのペナン島に生まれた。中等教育を受けていたが、太平洋戦争が始まり、日本軍の占領下に置かれると、日本海軍の学校に入った。そこで音楽の基礎や日本語を学び、日本の曲をピアノやバイオリンで演奏した。後には日本映画からも影響を受けた。1945年に最初の音楽バンドを結成し、音楽家として歩み始めた。ピアノやバイオリンに加えてトランペットやサクソフォンも演奏し、歌手、作曲家、俳優、映画監督として幅広く活動することになる。
1948年、映画『チンタ(愛)』で俳優としてデビューした。以後、44歳で亡くなるまでに六十本を超える映画に監督または俳優として参加し、三百曲以上を作曲した。新作映画ごとに新しい曲を生み出したという。1950年代から1960年代にかけてはマレー映画の黄金期を支える大スターとなり、時代遅れの独身男たちを描くシリーズや、三人組が活躍する『ドレミ』シリーズ、『三人のアブドゥル』などの作品で広く親しまれた。1963年には東京で開かれたアジア映画祭で、多彩な才能をたたえる賞を受けた。映画は後年もテレビで繰り返し放映され、楽曲は多くの歌手に歌い継がれている。
ラムリーの音楽は、マレーやインドネシアの伝統的な歌や踊りを土台に、ラテン音楽、ジャズ、アラブ音楽、インド音楽のリズムや旋律を自由に取り入れた。ジョゲッ、クロンチョン、ドンダン・サヤンといった土地に根ざす様式を、外から届く音楽と組み合わせ、マレー歌謡とポップソングの礎を築いた。1960年代に作曲した『ブニ・ギター』には、当時海外で流行したツイストの要素も取り入れている。『アドゥハイ・サヤン』や『ゲタラン・ジワ』など多くの歌曲を残し、曲名には『アリババ・ロック』『クウェク・マンボ』『アイ・アイ・ツイスト』のように、ロックやマンボ、ツイストの語を冠したものもある。三人目の妻サロマは彼の映画にも登場する女優で、マレーシアとシンガポールで大きな人気を得た歌手だった。
ラムリーは1950年代から1970年代にかけて活躍し、「マレーシア音楽の父」と呼ばれるようになった。後の世代では、1970年代から1980年代に人気を誇ったスディルマン・アーシャドがロック世代を代表し、ラムリーはジャズからラテン音楽までの世代を代表する歌手だった。二人はともにポップソングも伝統歌謡も歌い、幅広いレパートリーを持ち、マレーシア大衆音楽の最重要人物とされている。ラムリーは1973年5月29日、心臓病のため44歳で死去した。2019年には彼の歌曲149曲が国家遺産となった。
同じ年に亡くなった人物
- ジュール・ラドゥメグ (1973年没)
- クラス・ツンベルグ (1973年没)
- Erich Srbek (1973年没)
- ウィリアム・プルーマー (1973年没)
- アドルフ・シュトラウス (1973年没)
同じ地域に関係する人物
- サラフディン・アブドゥル・アジズ (2001年没)
- ファトマワティ (1980年没)
- アフマド・シャー (2019年没)
- 白光 (女優) (1999年没)
- アズラン・シャー (2014年没)