HISTORICAL PERSON · 1973年没

アミルカル・カブラル

ポルトガル領ギニア出身の農業技術者で革命家。ギニアとカーボベルデの独立運動を展開し、アフリカ人のナショナリズム運動を立ち上げた。

生涯
1973年没
死亡地
ギニア共和国(コナクリ)
出生地
ギニアビサウ共和国(バファタ)
出典
世界地図
ギニア共和国(コナクリ)

伝記

アミルカル・カブラルは一九二四年、ポルトガル領ギニアのバファタに生まれた。両親はカーボベルデ出身で、父は教師だった。幼い時期にカーボベルデへ移り、中等教育までをそこで受けた。一九四五年から、農学を学ぶため宗主国ポルトガルのリスボンへ渡る。学生として暮らす中で、アンゴラ出身のアゴスティニョ・ネトと知り合い、アフリカ人のナショナリズム運動を立ち上げた。リスボンではアフリカ研究センターを設立し、政治結社が禁じられる中で、文化活動や政治に関わらない会員の存在を隠れ蓑に、反体制的な政治活動を進めたという。弟のルイス・カブラル(異母弟とする資料もある)は、後にギニアビサウ初代大統領となる。

一九五二年にポルトガル人のマリア・エレーナと結婚し、ポルトガル領ギニアへ戻って農業技術者として働いた。一九五三年から農業調査で各地をめぐり、土地と人々の暮らしを知った。この調査では六万キロメートル以上を移動したとされ、土地と人々に通じたことが、のちのゲリラ戦にも役立ったといわれる。ギニアとカーボベルデの独立運動を始めると、当局は彼を一九五四年にアンゴラへ追放したが、帰国後の一九五六年九月、両地域の独立を目指すアフリカ独立党を結成した。同年にはネトらとアンゴラ解放人民運動の設立にも携わる。カブラルの独立運動は、当初は穏健なものだった。

一九五九年、ビサウ港の労働者によるストライキをポルトガル軍が武力で鎮圧した。ピジギチの虐殺と呼ばれるこの事件の後、カブラルは武装闘争による独立を検討するようになる。一九六〇年には党を改組し、ギニア・カーボベルデ独立アフリカ党と名乗って、二地域の運動を一体として進めた。独立戦争に備え、ガーナのクワメ・ンクルマの許可を得て訓練キャンプを設け、部下に住民や伝統的な指導者へ働きかける話し方も訓練したという。一九六三年初め、党を率いてティテのポルトガル軍基地を攻撃し、ギニアビサウ独立戦争が始まった。周辺のギニアやセネガル、キューバなどの支援も得て、独立運動側は支配地域を広げ、カブラルは解放地域の実質的な指導者となった。

農業技術者としての経験は戦時の組織作りにも生かされた。兵士に地元の農民へ改良した農法を教えさせ、住民とともに畑を耕して食料を確保する一方、物資を農村に届ける交換市や、負傷者を治療する施設も整えた。兵士は戦闘に参加しない時には住民と働き、地域の農業生産を支えた。巡回する市は日用品を植民地商店より安く農村へ届け、移動式の医療施設は負傷兵に加えて住民にも医療を提供し、治療にはソ連やスウェーデンから得た医薬品も用いた。兵士を養い、住民とともに土地で暮らせるようにしなければ戦いを続けられないと、カブラルは考えたとされる。一九七二年には独立後の国づくりに備え、人民議会の創設に取りかかる。しかし翌年一月、ギニアの首都コナクリで、ポルトガル秘密警察の支援を受けた不満を持つ元同志らに暗殺された。ギニアビサウが一方的に独立を宣言する約八か月前のことだった。カブラルは農業技術者、組織者であると同時に作家としても活動した。カーボベルデのサル島にある国際空港は彼の名にちなんで命名され、ギニアビサウとカーボベルデの独立運動を率いた人物として記憶されている。

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