HISTORICAL PERSON · 1973年没

イスメト・イノニュ

オスマン帝国末期からトルコ共和国初期の軍人で、トルコの第2代大統領。1938年から1950年まで在任した。

生涯
1973年没
死亡地
トルコ共和国(アンカラ県 / アンカラ)
出生地
トルコ共和国(イズミル)
出典
世界地図
トルコ共和国(アンカラ県)

伝記

ムスタファ・イスメト・イノニュは一八八四年九月二十四日、オスマン帝国領スミルナに生まれた。父は公務員、母は宗教学者の娘で、少年時代は父の転勤に伴って各地を移った。シワスの学校を経て、イスタンブールの陸軍工科学校で砲兵を学び、一九〇三年に首席で卒業した。一九〇六年には陸軍大学を首席で修了し、参謀将校として各地の部隊や参謀本部に勤務した。第二次バルカン戦争では参謀を務め、ブルガリアとの交渉団にも軍事顧問として加わった。第一次世界大戦では参謀本部や軍団の要職に就き、一九一七年にはパレスチナ方面の軍団を指揮した。メギッドの攻勢で意識を失ってイスタンブールへ後送された後、陸軍省の次官となった。一九一六年にはメヴヒーベと結婚し、長男オメル、次男エルダル、長女オズデンをもうけた。

第一次世界大戦後、イスタンブールが連合軍に占領されると、イノニュはアナトリアへ渡ってムスタファ・ケマルの国民運動に加わった。一九二〇年にアンカラへ到着し、大国民議会議員と参謀本部大臣を務め、西部戦線の司令官としてギリシア軍との戦争を指揮した。一九二一年のサカリヤの戦いでは、ケマルが総司令官として軍を率い、ギリシア軍を退けた。翌年の大攻勢では、八月三十日にドゥムルプナルでギリシア軍トリクピス部隊の降伏を受け入れた。ギリシア軍が敗れると、イノニュは休戦交渉に参加し、続いて外務大臣としてローザンヌ会議のトルコ側代表団を率いた。領土をめぐって粘り強く交渉したが、エーゲ海諸島や西トラキアなどの喪失を受け入れ、海峡の管理を国際委員会に委ねる結果となった。一九二三年に共和国が成立すると首相に任命され、ケマルの改革を支えた。議会は一九三四年、イノニュ付近での戦いにちなみ彼に「イノニュ」の姓を贈った。

ケマルの下で七度にわたり首相を務めたが、一九三七年に外交方針をめぐって大統領と対立し、職を解かれた。翌年、ケマルが死去すると後継の大統領に選ばれ、与党共和人民党の終身党首となった。第二次世界大戦では枢軸国と連合国の双方から参戦を求められたが、建国から間もないトルコの軍備が十分でなかったこともあり、中立を保った。戦況や外交関係の変化に応じて各陣営との距離を調整し、チャーチルやルーズベルトとも会談した。一九四四年にドイツと、一九四五年初めに日本と国交を断ち、同年二月には両国に宣戦したが、実際の戦闘には参加せず、国際連合の原加盟国となる道を確保した。

戦後、トルコは米国側に加わり、イノニュ政権は一党支配を改める方向へ進んだ。共和人民党から離れた議員らによる民主党の結成を認め、一九五〇年の選挙で敗れると大統領を退き、野党党首となった。一九六〇年の軍事クーデター後、翌年の選挙で共和人民党が比較第一党となり、イノニュは一九六五年まで三度にわたり連立内閣を率いた。党内では中道左派路線を掲げるビュレント・エジェヴィトを登用したが、軍の政治介入を容認したことで対立した。一九七二年、党の書記長選挙でエジェヴィトがイノニュの推す候補を破ると、イノニュは党首を辞任してエジェヴィトに譲り、終身上院議員となった。翌一九七三年十二月二十五日に八十九歳で没し、アンカラのアタテュルク廟に葬られた。

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