伝記
ネジメッティン・エルバカンは、1926年10月29日に、トルコの黒海沿岸の都市スィノプで生まれた政治家で、1996年から1997年まで首相を務めた。父メフメト・サブリは、キリキア地方の名家コザノウル家の出の判事で、母カメルはスィノプの名家の出のチェルケス人で、父の二番目の妻だった。父方の叔父は、共和人民党からアダナ市長になった人物である。イスタンブールの高校を出て、1948年にイスタンブール工科大学の機械工学科を卒業し、西ドイツのアーヘン工科大学に留学して博士号を取得した。ドイツ滞在中は、エンジン工場の研究開発部門で働き、ドイツ軍向けの戦車のエンジンの研究にも加わった。帰国後の1954年に母校で教職に就き、1965年に教授となった。産業界の要職を経て政治に転じ、イスカンデルパシャ教団というイスラム神秘主義の集団の一員でもあった。
トルコの産業界とも親しく、大財閥による経済支配を批判して、中小企業の経営者の支持を集めた。その支持をもとに、1968年に商工会議所連合会の会頭に就いたが、財界の圧力で翌年辞任した。政界への進出を目指し、はじめは与党・公正党内のイスラム系議員と連携しようとしたが、宗教勢力の拡大を好まない党首デミレルに阻まれた。1969年の総選挙にコンヤ選挙区から無所属で立候補し、当選した。左翼勢力と大資本を批判し、イスラム的な価値観に基づく経済発展を主張した。中小企業の保護、利子の廃止、世俗主義の原則の否定、欧州共同体への加盟反対などからなる政策は、「国民の視座」を意味する「ミッリー・ギョリュシュ」と呼ばれ、のちの政党の理念となった。1975年には同名の著作も公表した。
1970年にイスラム系議員を集めて国民秩序党を設立したが、翌年に憲法裁判所から活動禁止を受けたため、1972年に国民救済党を設立し、1973年に党首となった。1970年代には共和人民党と公正党の二大政党のどちらも過半数を取れず、国民救済党は両党の間でキャスティング・ボートを握り、1974年から1978年にかけて連立内閣に参加して、エルバカンは副首相も務めた。1980年9月12日の軍事クーデターで、全政党が活動を禁じられ、国民救済党も非合法化されて、幹部とともに逮捕された。1983年の民政移管で、支持層の受け皿として福祉党が結成されたが、エルバカンは10年間の政治活動の禁止を受けており、公式には別の人物が党首だった。1987年の国民投票で禁止が解除されて福祉党の党首となり、1991年に国会に復帰した。
1995年の総選挙で福祉党は第1党となり、短命に終わった連立政権のあと、1996年6月28日に、正道党と連立するエルバカン政権が発足した。首相として、アラブ諸国との関係の強化を図り、イスラム諸国の安全保障機構や共通通貨のディナールを提案した。リビアの指導者カダフィの前で受け身の態度を見せたことが国内の批判を招いた。警戒した軍部は、1997年2月28日に国家安全保障会議の席で「宗教的反動勢力」への警告を表明し、5月には最高検察庁が福祉党の非合法化を求めて憲法裁判所に提訴した。エルバカンは軍部の圧力に屈して首相を辞任し、6月30日に政権は崩壊した。1998年1月、憲法裁判所は福祉党を非合法とし、エルバカンら幹部に5年間の政治活動の禁止を言い渡した。その後も美徳党や至福党に影響力を持ち、至福党の党首も務めた。2011年2月27日、病気のためアンカラの病院で死去した。
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