HISTORICAL PERSON · 1498年没

シャルル8世 (フランス王)

ヴァロワ朝のフランス王で、13歳で即位した。1494年にイタリア戦争を始め、ナポリに入城して王位に就いたが、ヴェネツィアや教皇などの反発を受けた。

生涯
1498年没
死亡地
フランス共和国(アンドル=エ=ロワール県 / アンボワーズ)
出生地
フランス共和国(アンボワーズ)
出典
世界地図
フランス共和国(アンドル=エ=ロワール県)

伝記

シャルル8世は、1470年6月30日にアンボワーズ城で生まれ、1498年4月7日に没したヴァロワ朝第7代のフランス王である。在位は1483年から1498年で、温厚王と呼ばれた。父はルイ11世、母は後妻のシャルロット・ド・サヴォワで、王の子のうち幼児期を生き延びた唯一の男子であった。体が弱く、父は世継ぎの確保を案じて健康ばかりを気にかけ、ラテン語の学習は禁じたが、人文主義者ギヨーム・タルディフを師に選び、当代一の医師ジャン・マルタンも仕えさせたという。

幼いころから、シャルルは父の外交の道具として婚約を重ねた。1475年のピキニー条約に伴い、イングランド王エドワード4世の娘エリザベス・オブ・ヨークとの婚約が定められた。1477年にはブルゴーニュ女公マリーとの縁組が考えられたが、マリーはハプスブルク家のマクシミリアンと結婚する。マリーが亡くなると、マクシミリアンはアラス条約で娘マルグリットをシャルルの婚約者として差し出した。マルグリットは誘拐同然にフランスへ送られ、姉アンヌ・ド・ボージューの下で養育された。晩年の父ルイ11世は疑い深くなり、シャルルは婚約者とともにアンボワーズに閉じ込められて暮らした。

1483年8月30日、父の死により13歳で即位し、姉アンヌと義兄ブルボン公ピエール2世の夫妻の摂政下に置かれた。1484年1月から3月にトゥールで全国三部会が開かれ、この夫妻の権力は強化され、同年5月30日にランスの大聖堂で戴冠した。摂政に反発した諸侯の反乱は、後にルイ12世となるオルレアン公ルイ2世が主導し、1488年7月28日のサン=トーバン=デュ=コルミエの戦いで公は捕らえられた。公は3年間投獄され、1491年に赦免されている。同じ1491年12月6日、シャルルはマルグリットとの結婚を解消し、ブルターニュ公国の継承権をもつアンヌ・ド・ブルターニュと政略結婚した。しかも元の妃マルグリットを、マクシミリアンが武力に訴えるまで返さなかった。

アンヌとの結婚以後、自立するようになり、1494年にイタリア戦争を始めた。ナポリ王国の継承権を主張してフランス軍を率いイタリア半島を南下し、ローマを経て、1495年2月22日にナポリへ入城して戴冠し、ナポリ王となった。しかしフランスの介入を嫌うヴェネツィア共和国、教皇アレクサンデル6世、ミラノ公ルドヴィーコ・スフォルツァらの同盟軍に包囲され、多大な損害を出して逃げ帰った。この遠征の失敗によって、フランスは莫大な負債を抱えることになった。また、その治世では、父が併合していたアルトワ、ブルゴーニュ伯領、ルシヨンが失われている。イタリア侵攻のとき、イタリア人が見たシャルルの容貌を記した記録は、多数残っている。

1498年、シャルルはうっかり鴨居に頭を打ちつける事故を起こし、間もなく死亡した。遺体はサン=ドニ大聖堂に、心臓は別の地に埋葬された。王妃アンヌとの間には3男1女が生まれたが、長男のシャルル=オルランを含め、いずれも夭逝しており、この死によってヴァロワ家の本流は断絶した。サリカ法により、傍系のオルレアン公ルイ2世がルイ12世として王位を継いだ。

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