伝記
ユーディト・フォン・アルトドルフは、フランク王にして西ローマ皇帝のルートヴィヒ1世(敬虔帝)の2番目の妃である。生年は795年から807年のあいだの不確かな範囲で語られ、特に797年から805年ごろとする見方がある。843年4月19日に没した。817年の帝国整序令に基づく領土分割に異議を唱えたことで、カロリング家内の相続争いの発端を作った人物とされる。
古ヴェルフ家の始祖であるシュッセンガウ伯ヴェルフ1世と、ザクセン人貴族出身の妻ハイルヴィヒの娘として生まれた。父方の一族は代々アルトドルフを本拠とし、妹のヘンマは後に継息子の東フランク王ルートヴィヒ2世に嫁いでいる。ヴェルフ家は高い身分の貴族ではあったが、帝国の高位の官職を占めた帝国貴族層には属していなかった。一方でライン川の東に広い領地を持ち、バイエルンとアレマニエの政治に大きな力を持っていたため、皇帝にとって好都合な同盟相手であったとも考えられている。最初の妃エルマンガルドを亡くしたルートヴィヒ敬虔帝は、側近に再婚を勧められ、819年にアーヘンでユーディトと結婚した。当時の皇帝は41歳だった。花嫁選びの場で「各地から宮廷に連れて来られた貴族の娘たち」の中から選ばれたといい、同時代のテガンらはその美貌と知性、音楽の才を理由に挙げている。意志が強い姫だったともいう。結婚の贈り物として、ブレシアのサン・サルヴァトーレ修道院領を封土として与えられ、皇后として戴冠したという。皇后は夫に大きな影響力を持ち、実家のヴェルフ家の権勢を高めるのにも大いに貢献した。
823年に息子シャルル(禿頭王)を産むと、ユーディトは自分の息子にも夫の領土の一部を相続させたいと望んだ。しかし817年の帝国整序令では、所領は先妻エルマンガルドの3人の息子、ロタール1世、ピピン1世、ルートヴィヒ2世の間で分けると定められていた。皇后の野心的な振る舞いは貴族層の反発を招き、バルセロナ伯ベルナトとの姦通を疑われた末、830年にポワチエの修道院へ追放された。同年10月のナイメーヘンの帝国会議ののち、ようやく夫のもとに戻ることができた。833年、リューゲンフェルトで皇帝が年長の息子たちに退位させられる事件が起きると、トルトーナへ亡命した。834年に夫が復権すると、アーヘンの宮廷に帰還した。
その後もユーディトは、シャルルに相応の相続分を得させようと、継息子のロタール1世やルートヴィヒ2世と手を結んだり離れたりを繰り返した。840年にルートヴィヒ敬虔帝が死んだとき、相続に関する遺言は残されておらず、兄弟間の戦いが続く中でシャルルは比較的不利な立場に置かれた。それでも母の精力的な支援が実を結び、843年8月のヴェルダン条約で、シャルルは帝国西部に広大な領土を確保した。ユーディト自身はその4か月前にトゥールで世を去り、同地の聖堂に葬られた。娘にはギーゼラ(820年-874年)がおり、フリウーリ辺境伯エーバーハルトと結婚して、ベレンガーリオ1世の母となった。
同時代人の評価は割れている。ヴァラフリート・ストラボやラバヌス・マウルスは彼女を高く敬ったが、リヨンのアゴバルトやコルヴァイのワラは諸悪の根源とみなした。後世の歴史家の評価の振れ幅も大きい。19世紀から20世紀初頭には、息子かわいさにカロリング帝国を崩壊に導いた者として、他の家族とともに非難された。近年は、息子の権利を守り、未亡人となった後の没落を防ごうとした行動は当然であり、帝国崩壊に果たした役割は実際より強調されてきたという擁護論が有力である。
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