伝記
トマス・デ・トルケマダは、1420年に生まれ、1498年9月16日に没した15世紀スペインのドミニコ会の修道士で、スペイン異端審問の初代長官として知られる。生地はカスティーリャ王国のトルケマダ、あるいは近くのバリャドリッドとされ、バリャドリッドで育った。枢機卿で神学者だった叔父フアン・デ・トルケマダにならい、バリャドリッドのサン・パブロ修道院でドミニコ会士となった。コンベルソ(改宗ユダヤ人)の祖先をもつ人物と説明されることがあるが、そうした家系の出ではなかったとする指摘もある。
32歳のとき、セゴビアのサンタ・クルス修道院の院長に任じられ、1452年から1474年までその職にあった。禁欲的な暮らしと信仰心、学識で知られ、まだ幼かったカスティーリャの王女イサベルの聴罪司祭となった。イサベルには、将来の君主として王国の宗教的な統一を守る務めがあることを説いたとされる。1469年にイサベルがバリャドリッドでフェルナンドと結婚し、1474年にイサベルがカスティーリャ女王に即位したのちも、トルケマダは王夫妻に近い存在であり、王の聴罪司祭にもなった。セビリャの豊かな司教職などの名誉ある地位は辞退し、顧問の立場にとどまったという。
のちにカトリック両王と呼ばれる夫妻は、王国の統一を掲げて強い宗教政策をとることを決め、教皇シクストゥス4世を説いて、スペインの異端審問所を王権の管理下に置いた。背景には、いわゆる「隠れユダヤ人」を含む表面的な改宗者が、社会や政治、経済の面でカトリック教徒のなかに広がっていたことがある。フェルナンド2世はそれを宗教的・社会的な脅威とみなして、異端審問所の設置を決めた。1483年10月17日、トルケマダは教皇からアラゴンの異端審問の責任者に任じられ、以後、カスティーリャとアラゴンの全体を統べる長官となった。拷問による自白の強要などの厳しい手法で知られ、改宗者への監視を強めた。在職18年間に約8000人を焚刑に処したと伝えられるが、在職は15年だったともいわれ、数字は一致しない。
異端審問の法の整備にも力を注ぎ、法律家の助けを得て28か条の「審問官の規則」を作り、セビリャでの審問官の総会で公布した。1492年には、4か月以内にキリスト教へ改宗しない者の国外追放を定めたアルハンブラの勅令の主な支援者として、ユダヤ人のスペインからの追放に尽力した。
晩年は自ら建てさせたアビラの聖トマス・アクィナス修道院にこもり、修道士の質素な暮らしに戻りながらも、長官の職にあって、異端審問を導くための最善の規則を考え続けた。王夫妻の訪問を何度も受け、亡くなろうとしていた王子フアンのそばにいて王と王妃を慰めるため、サラマンカへも赴いている。1496年ごろまでは活動的だったが、晩年は痛風の発作に悩み、1498年には最後の審問官総会を主宰した。トルケマダへの苦情が広まり、健康も損なわれたことから、教皇アレクサンデル6世は1494年6月に4名の副長官を任じ、異端審問を抑制しようとした。1498年に同修道院で没し、埋葬された。その墓は1832年に荒らされ、遺骨は盗まれて、アウト・デ・フェの儀式のように焼却されたと伝えられる。
同じ年に亡くなった人物
- Vespasiano da Bisticci (1498年)
- アントニオ・デル・ポッライオーロ (1498年没)
- シャルル8世 (フランス王) (1498年没)
- フランチェスコ・ボッティチーニ (1498年(推定))
- ジャンヌ・ド・ラヴァル (1498年)
同じ地域に関係する人物
- アルカンタラの聖ペドロ (1562年没)
- フリオ・ヒメネス (2022年没)
- ルイス・アントニオ・デ・ボルボーン・イ・ファルネシオ (1785年没)
- アルフォンソ・デ・カスティーリャ (1468年没)
- アルフォンソ8世 (カスティーリャ王) (1214年没)