伝記
ジェームズ3世は、ジェームズ2世とゲルデルン公女メアリーの間に生まれた、スコットランド王である。生まれた日と場所には議論があり、1451年7月10日や20日とする説のほか、1452年5月とする説もあり、伝記作者のノーマン・マクドゥーガルは1452年5月末にセント・アンドルーズで生まれたと強く主張している。生まれたのは、父王がスターリング城でダグラス伯を刺殺した危機のさなかで、ダグラス家との内戦状態は1455年にジェームズ2世がアーキンホルムの戦いで決定的な打撃を与えるまで続いた。
1460年8月3日、父王がロクスバラ城の包囲中に死ぬと、幼い王は母とともにケルソーへ連れて行かれた。スクーン修道院での戴冠は難しいとされ、父の死から1週間後、ロクスバラの陥落から2日後に、ケルソー修道院で戴冠した。初めのうちは、母メアリーが摂政として政務を担い、王自身は古典学者のアーチボルド・ホワイトローに教育された。1461年3月の最初の議会は、セント・アンドルーズ司教、グラスゴー司教と数名の伯からなる摂政会議を置いた。
メアリーは薔薇戦争のさなか、実利を重んじる外交を進めた。トウトンの戦いでランカスター派が敗れると、ヘンリー6世らが北へ逃れてスコットランドへ来たので、母はリンリスゴー宮殿やエディンバラの修道院に彼らを迎えた。ランカスター派は軍の支援を期待したが、メアリーに戦争へ関わる気はなく、1年の庇護と貸付の見返りに、1461年4月にベリックを受け取り、勝った側のヨーク派とも休戦を探った。司教ケネディはランカスター派との同盟を望み、王の身柄と外交方針をめぐってメアリーと争った。1462年秋にケネディらが10歳の王を確保したとされ、メアリーは1463年12月に世を去った。
1469年8月10日、デンマーク王クリスチャン1世の王女マーガレットと結婚した。当時の北欧3国はカルマル同盟のもとで大国となっており、対イングランド関係でも有利な縁組だった。スコットランド側は持参金として現金を求めたが、クリスチャン1世は手元不如意を理由に、代わりにオークニー諸島とシェトランド諸島を持参金とし、現金は結局支払われず、この2つの諸島はスコットランド領となった。この結婚で、王の治世にスコットランドは最大の領土に達した。3人の男子が生まれ、長男が後のジェームズ4世で、次男はロス公、三男はマー伯となった。
ジェームズ3世は、貨幣の価値を下げたり、金をため込んだり、ブルターニュなどへの非現実的な侵攻計画を進めて王の務めを怠ったり、争いを収めず刑事司法を実行しなかったと非難され、イングランドとの協調政策も不評だった。身分の低い寵臣を好んだため、司教や貴族、さらには弟や妻、後継ぎの長男とも関係が悪化した。1482年には弟のオールバニ公アレグザンダーがイングランド軍の助けを借りて王位を奪おうとし、ベリックを失い、貴族の一団の起こしたクーデターで王は一時幽閉された。文化には深い関心を示し、画家や音楽家を庇護し、三位一体の祭壇画やレスタルリグの王の礼拝堂がその遺産として残るが、後の2人の王に比べると芸術上の遺産は小さい。王の肖像を刻んだ貨幣も作られた。1488年、不満を抱いた貴族と長男が反乱を起こし、ソーキバーンの戦いで敗れて没した。
同じ年に亡くなった人物
- シャルル2世 (ブルボン公) (1488年没)
- ペドロ・ルイス・ボルジア (ガンディア公) (1488年)
- アンドレア・デル・ヴェロッキオ (1488年没)
- シャイフ・ハイダル (1488年)
- フランソワ2世 (ブルターニュ公) (1488年没)
同じ地域に関係する人物
- マシュー・ステュアート (第4代レノックス伯) (1571年没)
- ウィリアム1世 (スコットランド王) (1214年没)
- マードック (1425年没)
- マーガレット・オブ・デンマーク (1486年没)
- アレグザンダー1世 (スコットランド王) (1124年没)