伝記
ウィリアム1世は、スコットランド王(在位1165年から1214年)で、獅子王と呼ばれる。約49年にわたる在位は、1603年の同君連合より前のスコットランド王のなかで最も長かった。1142年ごろに生まれ、父はデイヴィッド1世の次男ハンティンドン伯ヘンリー、母はサリー伯ウィリアム・ド・ワーレンの娘エイダである。兄はマルカム4世、弟はハンティンドン伯デイヴィッドである。盾の紋章に後ろ足で立つライオンを使ったためともいうが、その史料はなく、あだ名の根拠ははっきりしない。
1152年に父が没したとき、ウィリアムは10歳ほどで、父からノーサンブリア伯位を受け継いだ。しかし1157年に、兄マルカム4世がイングランド王ヘンリー2世に強いられて、ノーサンバーランドを含む北部3州を取り上げられ、ウィリアムはヘンリー2世への恨みを募らせた。1165年12月9日に兄が24歳で未婚のまま没したため、ウィリアムが王位を継ぎ、12月24日に即位式が行われた。信仰深く病弱だった兄とは違い、ウィリアムは体格がよく、赤毛で、頑固であった。1168年には、フランス王ルイ7世と秘密同盟を結んだ。これがスコットランドとフランスの最初の確かな同盟条約で、「古い同盟」と呼ばれる。1173年にヘンリー2世の次男若ヘンリー王をはじめとする王子たちが反乱を起こすと、ハンティンドン伯位を弟デイヴィッドに譲って反乱に加わった。1174年にアニックの戦いで、60騎ほどで400のイングランド軍に不意をつかれた彼は、「どちらが良い騎士か、いま見せてやろう」と叫んで自ら突撃し、落馬して捕らえられた。ノルマンディーへ送られた。ヘンリー2世は軍をスコットランドに送って占領し、ウィリアムは解放の条件として、ヘンリー2世を封建的な主君と認め、占領軍の費用4万マルクをスコットランド人への課税でまかなうことなどを約束した。スコットランドの教会もイングランドの教会に従属させられた。これがファレーズ条約で、1175年8月10日にウィリアムはヨーク城でヘンリー2世に臣従を誓った。
この屈辱は、ギャロウェイの反乱を引き起こし、反乱は1186年まで続いて、ダンフリーズに城が築かれた。1179年には、弟デイヴィッドとともに北のイースター・ロスへ軍を進め、城を2つ築いた。オークニー伯がケイスネスの外へ勢力を広げるのを防ぐためである。1181年にはドナルド・メイク・ウィリアムが反乱を起こし、1187年に彼が没するまで、インヴァネスを取り戻せなかった。1188年には、スコットランドの教会は直接ローマにだけ従うとする教皇の勅書を得て、イングランドのカンタベリー大司教の主張を退けた。1189年12月5日、第3回十字軍の資金を必要としたリチャード1世が、銀1万マルクと引き換えにファレーズ条約を廃止した。これでスコットランドの主権は回復し、ウィリアムは辺境の首長たちに対処できるようになった。ギャロウェイを従え、モレーとインヴァネスの大きな反乱をしずめ、ケイスネスとサザランドも王の支配下に置いた。1194年には、ノーサンブリアを買い戻そうと1万5000マルクを申し出たが、城を求めたため、リチャードに断られた。1212年にはジョンと和解したが、買い戻しの交渉は実らなかった。
ウィリアム1世は、1186年にヘンリー1世の庶子コンスタンスの孫娘と結婚し、4人の子をもうけた。1214年12月4日にスターリングで没し、自らが創建した修道院に葬られた。息子のアレグザンダー2世が跡を継いだ。
同じ年に亡くなった人物
- ハインリヒ6世 (ライン宮中伯) (1214年没)
- アルフォンソ8世 (カスティーリャ王) (1214年没)
- ティボー1世 (バル伯) (1214年没)
- エレノア・オブ・イングランド (1214年没)
- ミカエル4世アウトレイアノス (1214年)
同じ地域に関係する人物
- ロバート・ロイ・マグレガー (1734年没)
- アレグザンダー1世 (スコットランド王) (1124年没)
- ジョージ・イネス (1894年没)
- ジェームズ・アバークロンビー (将軍) (1781年没)
- マーガレット・オブ・デンマーク (1486年没)