伝記
ルードルフ・カルナップは、1891年5月18日、ドイツのロンスドルフ(現在のヴッパータル)に、パウル・ルドルフとして生まれた。父は貧しいリボン織り職人から身を起こして、リボン工場の経営者になった人で、母は学者の家の出であった。母の父は教育改革者、母の長兄は考古学者のヴィルヘルム・デルプフェルトである。10歳のときにはデルプフェルトのギリシア遠征に同行した。14歳でエスペラントを独学し、1908年にドレスデンで開かれたエスペラントの世界大会に出席している。のちの1924年のウィーン大会では、同じエスペラント話者のオットー・ノイラートと初めて会った。非常に信仰の篤いプロテスタントの家庭で育ったが、学生時代には無神論者となった。バルメンのギムナジウムやイェーナのギムナジウムを経て、1910年から1914年までイェーナ大学に学んだ。物理学で論文を書くつもりだったが、哲学者ブルーノ・バウフの授業でカントの『純粋理性批判』を熱心に読み、数理論理学を教えたフレーゲの講義に出た数少ない学生の一人となった。学生時代にはドイツ青年運動にも心を奪われた。
第一次世界大戦には道義的にも政治的にも反対だったが、ドイツ軍で従軍し、3年後にベルリン大学で物理学を学ぶ許可を得て、新任のアインシュタインのいる大学に1917年から1918年まで在籍した。1918年8月には独立社会民主党に入り、左翼紙の記者としても働いた。ドイツ革命と社会主義の支持者となり、社会主義への信念を生涯持ち続けた。イェーナ大学に戻って時間と空間の公理的な理論を書いたが、物理学科には哲学的すぎ、バウフには物理学だと言われた。そこでバウフの指導のもと、より正統的なカント流の空間論を書き直し、『空間』と題して1922年に出版した。フレーゲの講義でラッセルの論理学に触れたことで、研究の方向が定まり、ラッセルに手紙を送ると、ラッセルは当時カルナップにも大学にも買えなかった『プリンキピア・マテマティカ』の長い箇所を手で書き写して送った。1924年から1925年には、フッサールのゼミにも出た。
1923年の会議でハンス・ライヘンバッハと出会い、その紹介でウィーン大学のモーリッツ・シュリックに会い、1926年にその学科で職を得て、ウィーン学団の一員となった。学団にはハーン、ヴァイスマン、ノイラートらがおり、ウィトゲンシュタインがウィーンに来たときには、会って話をした。1928年に『世界の論理的構成』を著し、科学的知識の経験主義的な再構築を試みた。1929年の学団の宣言をハーン、ノイラートとともに書き、ライヘンバッハと哲学雑誌『認識』を創刊した。1930年にはタルスキの意味論の方法を知り、これが彼の意味論の出発点になった。1931年からプラハのドイツ大学で自然哲学の教授を務め、1933年にそこでクワインと会って、生涯続く敬意をはぐくんだ。
社会主義者で平和主義者でもあったカルナップは、ナチス・ドイツで危険にさらされるため、1935年にアメリカへ渡り、1941年に帰化した。1936年にシカゴ大学の哲学教授となり、1952年までそこで教えた。1939年から41年はハーバード大学で過ごした。シカゴ大学、プリンストン高等研究所を経て、カリフォルニア大学ロサンゼルス校で教壇に立った。一時期は意味論を研究したあと、再び科学的知識に関心を向け、分析命題と総合命題の区別などを論じた。1970年9月14日、入院中に79歳で死去した。
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