伝記
クリメント・エフレモヴィチ・ヴォロシーロフは、1881年2月4日(ユリウス暦では1月23日)、ロシア帝国領ウクライナのエカテリーノスラフ県ヴェルフニェー村で、ロシア人の鉄道労働者の家庭に生まれた。元兵士の父は、鉄道員や鉱山労働者として雇用と失業を繰り返した。本人は回顧録でルーツはロシアにあると述べたが、現代のウクライナの歴史家は、ウクライナ系である可能性が高いと主張している。6、7歳ごろから働きに出て、裕福な農民からしばしば殴打され、富農に対する激しい嫌悪を生涯持ち続けたと自伝に記している。12歳で近くの村の学校に入り、2年間の教育を受けた。工場で働いていたが、1896年にストライキに参加して解雇され、扇動の罪で逮捕されたが釈放された。1903年にルガンスクのドイツ人経営の工場に入り、同年末にロシア社会民主労働党に入党して、翌年ボリシェヴィキ派に属し、同地の委員会の指導者になった。
1905年の第一革命でも再びストライキを起こして逮捕され、釈放後はルガンスク・ソビエト議長となった。ストックホルムの党大会に代表として出席し、レーニンや、グルジア代表のジュガシヴィリ(のちのスターリン)と知り合った。1907年にはロンドンの党大会に出席して、フルンゼやカリーニンとも知り合ったが、同年に逮捕され、アルハンゲリスク州に追放されたものの脱走し、スターリンとともにバクーへ逃れた。1917年の二月革命の際はペトログラードにいたが、ルガンスクに戻ってソビエト議長に選ばれた。内戦では第5軍や第10軍を編成してツァリーツィンの防衛を組織し、その間にスターリンと緊密な関係を築いた。トロツキーからは、規律に欠け軍の指揮官にふさわしくないと見なされて罷免された。
1921年にクロンシュタットの反乱の鎮圧に参加して、党中央委員に選ばれた。1925年にフルンゼが死去すると、後任の陸海軍人民委員に就任し、翌1926年に政治局員となった。スターリン派に属していたため、スターリン、カーメネフ、ジノヴィエフの三頭体制が崩壊した後も粛清されず、側近として頭角を現した。1935年に軍の階級制度を復活させ、同年11月にソ連邦元帥を授与された。一方、1930年代の大粛清では、スターリンの追従者として執行の中心的な役割を担い、1936年8月の第一回モスクワ裁判では、被告人の慈悲を求める訴えを拒否して処刑を命じた政治局員の一人だった。185件の処刑リストにも自ら署名し、約1万8000人が有罪とされ、銃殺されたという。軍の同僚や部下も多く告発した。トゥハチェフスキー元帥の粛清には直接関与しなかったが、処刑には反対しなかったとされる。
1939年から翌年の冬戦争では総司令官としてフィンランドを攻めたが、粘り強い抵抗に苦戦し、赤軍は約32万人の死傷者を出した。この責任を問われて1940年5月に国防人民委員を解任された。食事会でスターリンに失策をののしられ、「あなたの粛清のせいだ」と反駁したという逸話が残る。1940年のカティンの森事件では、ポーランド軍将校らの処刑命令に署名した。1941年の独ソ戦開始後は国家防衛委員会の委員に任命され、政権の中枢から排除されずにすんだ。戦後はハンガリーの社会主義政権の樹立を監督し、1953年のスターリンの死後は、国家元首にあたる最高会議幹部会議長に任命された。しかしフルシチョフの台頭で地位が揺らぎ、1960年に辞任した。1966年に党中央委員に復帰し、1969年12月2日、88歳で亡くなった。
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