伝記
アンティノウスは、ローマ皇帝ハドリアヌスの愛人として寵愛を受けた若者である。小アジアの一地方ビテュニアのクラウディオポリス(現在のボル)で生まれたとされる。111年11月29日頃の生まれともいわれるが、没年から逆算すると生年は110年から112年とも、110年から115年ともされ、はっきりしない。ハドリアヌスに出会う前の事績はほとんど知られていない。
ハドリアヌスとの出会いの場所や年代について書かれた書物はない。ハドリアヌスがクラウディオポリスを訪れた123年冬か124年春であった可能性が高いとされるが、121年の最初のビテュニア滞在中だった可能性も捨てきれない。以後、アンティノウスは死ぬまで、旅を重ねる「旅する皇帝」ハドリアヌスの旅に同行した。ただし皇帝の取り巻きとしての存在が公式に言及されるのは、ハドリアヌスがエジプトを旅した130年になってからであった。ハドリアヌスは生涯ギリシア的な生き方の理想を求めた人物で、妻ウィビア・サビナとの結婚には不満を抱いていたことが知られている。二人の関係の実態については情報が乏しい。同時代のアレクサンドリアの詩人パンクラテスは、リビアの砂漠でハドリアヌスが、アンティノウスに襲いかかろうとした獅子を投げ槍で仕留めたと伝え、その獅子の血が砂に滴った場所に赤い蓮の花「アンティノウスの花」が咲いたという。これが事実に基づくのか後の脚色なのかは分からない。
130年10月(25日と思われる)、ハドリアヌスは、ナイル川で溺死した若者を見つける。エジプト中部のベサの近くで、皇帝の目の前で溺れたともいわれる。死亡したのは18歳位と推定される。その状況は謎に包まれたままで、古代から様々な説明がなされてきた。ハドリアヌス自身がこの事故を引き起こしたのだという説、ハドリアヌスの治世が長引くようにと、アンティノウスが進んで自らを生贄に捧げたのだという説がある。後世の著者カッシウス・ディオやアウレリウス・ウィクトルは、死の状況は不明だと述べている。事故だったとする説もあり、『ヒストリア・アウグスタ』の作者は、皇帝の求愛を逃れるために自ら死を選んだ可能性をほのめかしている。宮廷の陰謀の可能性も否定できないともされる。
ハドリアヌスは青年の死をひどく悼んだ。エジプト人はナイルで溺死したアンティノウスにオシリスの従者のイメージを抱き、この若者を神格化した。ハドリアヌスは悲しみのうちに、ナイル川沿いの事件の現場にヘレニズム風の都市アンティノウポリス(アンティノエ)を建設するほどであった。この街と住民には皇帝から異例の特権や恩恵が与えられた。街には皇帝の寵臣の墓所も築かれたとみられ、その建造物はいまローマにあるオベリスクの象形文字の碑文に記されている。ギリシア人はアンティノウスの内にヘルメスの化身を認めた。131年から132年には、青年に限定して体操と音楽の競技を行う祭典アンティノエイアが創設された。
神格化されたことから、アンティノウスの像は数多くの芸術作品に表現され、その顔は古代でよく知られていた。クラウディオス・プトレマイオスの『アルマゲスト』にも言及があり、現在わし座となっている5つの星からなる星座にアンティノウス座の名がつけられた。ローマでは当初冷たく受け止められたが、徐々に信仰の対象として馴染んでいった。それはキリスト教の到来前に加えられた最後の偉大な信仰対象となった。ルネサンス以降も、とりわけ彫刻を中心に芸術に数多く表現され、その謎めいた存在は多くの芸術家の関心を集めてきた。
同じ年に亡くなった人物
- マリノス (古代の地理学者) (130年没)
- Julia Balbilla (130年(推定))
- Publius Juventius Celsus (130年)
同じ地域に関係する人物
- ネフェルネフェルウラー (紀元前1400)
- セテプエンラー (紀元前1400)
- メケトアテン (紀元前1337)