伝記
メケトアテンは、古代エジプトのファラオ、アクエンアテンと偉大な王妃ネフェルティティの六人の娘の二番目である。名は「アテンを見よ」または「アテンに守られし者」を意味する。治世第4年から第14年ごろに生きたとみられ、詳しいことはほとんどわからないが、アマルナ時代の前半から中ごろにかけて、両親に付き添う姉妹たちとともに、しばしば描かれている。
姉に長女メリトアテン、妹にアンケセンパアテン、ネフェルネフェルウアテン・タシェリト、ネフェルネフェルウラー、セテペンラーがいた。ツタンカーテン(のちのツタンカーメン)は、同じ父母から生まれた弟か、父を同じくする異母の弟だったとみられる。誕生は、彼女に言及する碑文の年代から、アクエンアテンの治世第4年ごろと推定される。最も古い描写は、母ネフェルティティに捧げられたテーベのハトベンベン神殿の壁にあり、第4年以降とされる碑文では、メリトアテンの後ろに姿を見せる。アケトアテンの境界碑には第4年の出来事が記され、第5年に彫られたが、その碑にも彼女の姿が追加された。研究者のあいだでは誕生年に説の違いがあり、第5年と第6年の勅令の間とみる説もある。
メケトアテンは幼いうちに、王家とともに新都アケトアテン(アマルナ)へ移った。アマルナの貴族たちの墓には、王家の暮らしの場面に彼女の姿がある。アイの墓では、贈り物の盆を持ち、腕をネフェルティティの首にまわしている。父の治世第12年には、一家で外国からの貢ぎ物を受ける儀式に臨んだ。この場面は、廷臣フヤの墓や大司祭メリラー2世の墓の複数の場面に見られる。ほかにヘリオポリスの石碑、ファイユームの像の台座、パネヘシやパレンネフェルの墓にも彼女への言及がある。フヤの墓の浮彫では、年上の三人の姉妹とともに描かれ、二人の妹の姿はない。メリラー2世の墓の浮彫では、妹のネフェルネフェルウラーが一頭のガゼルを連れ、そのすぐ後ろでセテペンラーが手を伸ばして撫でようとしている。王宮の壁画にも姉妹たちと並んで描かれ、その断片はアシュモレアン博物館に残る。ブルックリン博物館には、この時代の王女メケトアテンの像とされるものが展示されている。
死は第14年ごろで、王墓γ室の弔いの場面から第13年か第14年とされる。第13年の日付のあるアマルナ出土の壺の札には、「王の娘メケトアテンの所領のワイン」と記されている。おそらく疫病で、ほかの王族とともに亡くなったと考えられる。第12年から第15年にかけて、王の母ティイ、第二の妃キヤ、王女のネフェルネフェルウラー、セテペンラー、そしてメケトアテンが記録から消える。中近東を襲った疫病が原因ともいわれる。
メケトアテンは、アケトアテンの王墓に葬られたとみられ、そこから石棺の破片が見つかっている。破片の銘文には両親、妹アンケセンパアテン、祖父母のアメンホテプ3世とティイ王妃の名がある。墓のγ室の象形文字は、亡くなった若い女性をメケトアテンと明確に示す。この部屋の一場面では、天蓋の下に立つメケトアテンと記された人物の前に、アクエンアテンとネフェルティティ、三人の娘が並ぶ。α室とγ室には、アクエンアテンとネフェルティティが、動かない女性の体の上にかがみこみ、涙を流して互いの腕にすがる場面がある。その後ろでは乳母が赤ん坊を抱き、扇持ちがつき従い、その子が王家の子であることを示している。この赤ん坊はツタンカーテンかもしれないという。
同じ年に亡くなった人物
- ティイ (紀元前 1337年)
同じ地域に関係する人物
- ネフェルネフェルウラー (紀元前1400)
- セテプエンラー (紀元前1400)
- アンティノウス (130年没)