伝記
ロヒール・ファン・デル・ウェイデンは、初期フランドル派の画家である。現存する作品の多くは、キリスト教的主題の祭壇画と肖像画で、生涯は平穏で大きな出来事はなかったと伝わるが、当時もっとも成功し、国際的な名声を得た画家だった。1695年と1940年に当時の記録文書が失われたため、その生涯についてはわずかなことしか分かっていない。現在のベルギーにあたるブルゴーニュ領ネーデルラントのトゥルネーで、1399年か1400年に生まれたとされる。出生名はロジェ・ド・ラ・パステュールで、父は刃物職人のヘンリ、母はアニエス・デ・ワットルローである。
修行時代の記録はほとんどなく、トゥルネーの古文書は第二次世界大戦で失われ、転記された記録がわずかに残るのみである。1427年3月17日には、トゥルネーの市議会が「マイスターのロジェ・ド・ラ・パストゥール」にワインを贈った記録があるが、翌1428年の聖ルカ組合の記録には、ロジェ・ド・ラ・パステュールがジャック・ダレーとともにロベルト・カンピンの工房に弟子入りしたとある。1432年8月1日に画家のマイスターの称号を得た。すでに独り立ちしていたはずの人物が再び徒弟となった理由は、1420年代のトゥルネーが混乱し、芸術家ギルドも十分に機能していなかったためではないかと考えられている。カンピンの弟子だったという説には異論もある。1426年ごろにブリュッセルの靴職人の娘エリザベトと結婚し、二人の間には、のちにカルトジオ会の修道僧となる長男コルネリウスら、子供たちが生まれた。
1435年10月21日までに一家はブリュッセルに移った。トゥルネーに残る最後の記録は、「現在ブリュッセルに在住」という記述である。翌1436年には「ブリュッセル公式画家」の称号を得たが、この地位は彼のために新設され、その死とともに廃止されたものである。ブリュッセルはオランダ語圏だったため、名をフランス語の「牧場のロジェ」から、オランダ語に訳した「ロヒール・ファン・デル・ウェイデン」に改めたといわれる。代表作の一つ『十字架降架』を描いて、北ヨーロッパでもっとも人気があり影響力のある画家という評価を確かにした。市庁舎の「黄金の議場」にも、裁きの情景を描いた大きな絵を4点描いた。資産や不動産に関する記録も残り、経済的にも成功していたことがうかがえる。
1450年の聖年にはローマへ巡礼し、イタリアの芸術家やパトロンと知り合い、エステ家やメディチ家が彼の絵を購入した。ミラノ女公ビアンカ・マリーア・ヴィスコンティは、自らの宮廷画家ザネット・ブガッティをブリュッセルの彼の工房に修行に出した。カスティーリャ王フアン2世の依頼で描かれたと考えられる『ミラフロレスの祭壇画』もある。ニコラウス・クザーヌスやアントニオ・フィラレーテといった学者も、彼を「最高」「もっとも素晴らしい」画家と評した。
人物を描くときは実在のモデルを用い、観察力は高かったが、表情などを優雅に理想化することも多かった。豊麗で温かみのある色を用い、哀愁感と写実でも高く評価された。1464年に死去し、聖ミシェル・エ・ギュデル大聖堂の聖カテリナ礼拝堂に葬られた。15世紀後半にはヤン・ファン・エイクを凌ぐ評価を得たが、17世紀のバロック美術の台頭とともに名声は低くなり、18世紀半ばにはほとんど忘れられた。その後、再評価が進み、現在はカンピン、ファン・エイクとともに初期フランドル派の三大巨匠とされる。
同じ年に亡くなった人物
- ヘンリー・ボーフォート (第3代サマセット公) (1464年没)
- ザガン・パシャ (1464年没)
- ベルンハルト2世 (ブラウンシュヴァイク=リューネブルク公) (1464年没)
- ニコラウス・クザーヌス (1464年没)
- ブランカ2世 (1464年没)
同じ地域に関係する人物
- ジョルジュ・テュニス (1966年没)
- ジョルジュ・プーレ (1991年没)
- ジャコモ・プッチーニ (1924年没)
- Fernand Feyaerts (1927年没)
- ウィリアム・ジャスティン・クロール (1973年没)