HISTORICAL PERSON · 1924年没

ジャコモ・プッチーニ

イタリアの作曲家。『トスカ』『蝶々夫人』『ラ・ボエーム』などのオペラは今日でも上演の機会が多い。ルッカの宗教音楽家の家系に生まれ、5歳で父を亡くした。

生涯
1924年没
死亡地
ベルギー王国(ブリュッセル / ブリュッセル市)
出生地
イタリア共和国(ルッカ)
出典
世界地図
ベルギー王国(ブリュッセル)

伝記

ジャコモ・プッチーニは、1858年12月22日にイタリアのトスカーナ地方のルッカで生まれ、1924年11月29日にベルギーのブリュッセルで没した作曲家である。『トスカ』『蝶々夫人』『ラ・ボエーム』などのオペラが、今日でも上演の機会が多いことで知られる。プッチーニ家は、18世紀から続くルッカの宗教音楽家の家系で、器楽作曲家もいたが、オペラ作曲家を目ざし、世界的な音楽家として名声を残したのはジャコモ一人である。5歳のときに父ミケーレが没したため、叔父から温情をもって教育を受けた。最初は教会のオルガニストの職を得たが、ヴェルディのオペラ『アイーダ』の上演に接して、オペラ作曲家を志した。1880年に『4声のミサ曲』(グローリア・ミサ)を完成して、初期の音楽修業と、家業である宗教音楽家の道に区切りをつけた。この作品は、のちにミラノの舞台で開花する劇的な表現力をうかがわせ、楽想はのちのオペラに転用された。

1880年から1883年までミラノ音楽院でポンキエッリとバッジーニに師事した。1882年には出版社ソンゾーニョ主催の1幕物オペラのコンクールに参加して入賞を逃したが、提出した『妖精ヴィッリ』は1884年に舞台化され、出版社リコルディの社主ジュリオ・リコルディの注目をひいた。リコルディ社の依嘱で作曲された第2作『エドガール』は1889年に完成した。1891年にはトスカーナの湖畔に別荘を購入して、終生の住まいとし、その地に遺体が眠っている。第3作『マノン・レスコー』は大成功となり、優れた台本作家イッリカとジャコーザの協力をもたらした。この二人の協力のもとに『ラ・ボエーム』『トスカ』『蝶々夫人』の3曲が書かれた。『ラ・ボエーム』は最高傑作とされ、最もロマンティックなオペラの一つに数えられる。『トスカ』は露骨な暴力描写や、主役3人が舞台上で死ぬ筋が話題となった。『蝶々夫人』は初演では敵意をもって迎えられたが、手直しののち、最も成功した作品の一つになった。

その後は不運が続き、作曲の筆は緩やかになった。1902年か1903年の2月、自動車を手に入れて乗り回すうちに事故を起こし、脚を骨折した。1906年にジャコーザが他界し、1909年には妻エルヴィーラが、女中との浮気を疑って責め立て、疑われた女中が服毒自殺して、エルヴィーラが起訴されるスキャンダルに発展した。1912年には恩人のジュリオ・リコルディも世を去った。それでも1910年に『西部の娘』を完成させ、1917年には『つばめ』を脱稿した。1918年には「三部作」と呼ばれる1幕オペラの連作が初演された。恐ろしいエピソードの『外套』、感傷的な悲劇の『修道女アンジェリカ』、笑劇の『ジャンニ・スキッキ』の3曲で、最も人気があるのは『ジャンニ・スキッキ』である。

ヘビースモーカーとして知られたプッチーニは、1923年末に喉頭癌と判明し、翌1924年、治療のため滞在していたブリュッセルで、手術後の合併症により急死した。最後のオペラ『トゥーランドット』は未完のまま遺され、友人のフランコ・アルファーノが、遺稿も参考にしてフィナーレを補筆した。ただし、初演の指揮者トスカニーニがアルファーノの補作の大部分を冗長と見なしてカットしたため、短縮した版が今日一般に用いられる。遺体は一度ミラノの墓に埋葬され、1926年に息子アントニオによって、トッレ・デル・ラーゴの自宅に再埋葬された。ヴェルディ亡き後の、19世紀末から20世紀初頭のイタリア・オペラの最高の作曲家とされる。旋律は、息が長いのに覚えやすく、口ずさみやすい。

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