伝記
シリウス・イタリクスは、ローマ帝政期の政治家、雄弁家、詩人である。紀元26年頃(25年とも)に生まれ、101年にカンパニアで没した。正式名はティベリウス・カティウス・アスコニウス・シリウス・イタリクスという。生地ははっきりしないが、名のカティウスとアスコニウスから北イタリアのパタウィウム(現在のパドヴァ)の出身とする説があり、同郷の歴史家リウィウスへの傾倒もそこから来たとされる。「イタリクス」の名から、ルネサンス以来、ヒスパニアのイタリカの出身と考えた学者も多かった。しかし、イタリカの住民を指す語は別であり、マルティアリスが前半世紀のヒスパニア出身の著名人の一覧に彼を入れていないことからも、その見方は疑わしい。祖先のだれかが、シチリアなどでしばしば名の挙がるイタリキ団体の一員としてこの名を得たのではないかと疑う者もいる。
若い頃はキケロの影響を強く受け、クラウディウス帝の時代には法廷弁論で知られた雄弁家だった。ネロの治世には慎重な政治家として振る舞い、皇帝に逆らうだけの才覚も野心もなかったという。ネロの犠牲者を有罪にした見せかけの裁判で弁論の才を売り、身の安全と執政官への昇進を確保したと考えられており、プリニウスも、ネロ時代に評判を損ね、自ら進んで告発したと信じられていたと記す。ネロの文学サークルの一員として書いたかとも考えられた『ラテン語のイリアス』は、実際には親族かもしれないプブリウス・バエビウス・イタリクスの作とされる。68年にはネロが最後に任命した執政官となった。ネロの自殺後の内乱ではウィテリウスの側に立ったが、最終的な勝者ウェスパシアヌスの敵意を買うことはなかった。タキトゥスによれば、東方の軍団が急ぎローマへ向かう中、ウィテリウスとウェスパシアヌスの兄フラウィウス・サビヌスの会談に、クルウィウス・ルフスと並ぶ二人の証人の一人として立ち会った。
77年頃にはアシア属州の総督を務めた。カリアのアフロディテ神殿の碑文がこれを裏づける。優れた行政官との評判を得て、ネロ時代の悪評を拭い、元老院議員の到達しうる最高の地位に達して、社会で高い名声を得た。この時期に巨万の富を築き、尊敬する詩人ウェルギリウスとキケロにゆかりの品々や所領を買い集めるのに使った。ウェルギリウスの所領を買い、彼を神のように敬い、キケロの別荘の一つも購入した。書物や美術品の購入では惜しみなく金を使うことで知られ、マルティアリスのような詩人の庇護者でもあった。プリニウスは、この収集癖と創作の活力の乏しさを批判し、「才能よりも綿密さをもって書き、朗読会では他人の批評に身を委ねることもあった」と記している。
政界から退き、静かに暮らして宮廷の陰謀を避けたため、敵意は薄れ、フラウィウス朝の終わりを無事に生き延びた。長男ルキウス・シリウス・デキアヌスは94年の執政官となったが、次男シリウス・セウェルスは早世した。この喪失をきっかけに、カンパニアの所領に移り、膨大で選りすぐりの蔵書と、教養ある友人たちの集いに囲まれて暮らした。長編の歴史叙事詩『ポエニー戦争の歌(プニカ)』は、第二次ポエニ戦争を扱い、88年より前には着手されなかったとされる。
晩年のシリウスはストア派の哲学者で、その自殺論を実践した。治る見込みのない腫瘍にかかると食を断って死に至り、最後まで明るい表情を保ったという。『ポエニー戦争の歌』は、近年も高橋宏幸の訳(京都大学学術出版会・西洋古典叢書、2023年)で日本語に訳されている。
同じ年に亡くなった人物
- Gaius Cestius Gallus (101年没)
- クィントゥス・ソシウス・セネキオ (101年(推定))
- ゾスカレス (101年(推定))
同じ地域に関係する人物
- ルッジェーロ1世 (プッリャ公) (1111年没)
- シビーユ・ド・ブルゴーニュ (1150年没)
- カルロ・ピカーサ (1857年没)
- ヘレナ・アンゲリナ・ドゥーカイナ (1271年没)
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