伝記
ルッジェーロ1世は、1060年または1061年、南イタリアの公ロベルト・イル・グイスカルドと、その二度目の妻シケルガイタの子として生まれた。母はサレルノ侯グアイマーリオ4世の娘である。ルッジェーロ・ボルサとも呼ばれ、ボルサは財布を意味する。幼い頃から財布の硬貨を何度も数える習慣があったことに由来するといわれる。父には初婚の妻との間にボエモンという息子がいたが、その婚姻は近親関係を理由に無効とされていた。1073年に父が病に倒れると、母はノルマン騎士たちにルッジェーロを後継者として認めさせた。ボエモンはその場におらず、反対したのは従兄のアベラルドだけであった。この時は父が回復し、直ちに相続が行われることはなかった。
1081年から、父や兄弟とともにビザンツ帝国領への遠征に参加し、1083年のコルフ島攻略にも加わった。1085年、ギリシャ遠征中に父が死ぬと、同じく遠征にいたルッジェーロはイタリアへ戻り、プーリア・カラブリア公位を継いだ。相続から外された異母兄ボエモンは反旗を翻し、同年末にはターラント、オトラント、オーリアを手に入れた。ルッジェーロは叔父でシチリア伯のルッジェーロに仲介を頼み、カラブリアの領土を見返りに差し出した。ボエモンにも領地を譲り、いったん争いを収めた。1086年には教皇の選出を支援してローマへ兵を送り、同年、自分が権利を持つシチリアの所領を訪れ、パレルモにも滞在した。
1087年末、ボエモンとの戦いが再燃した。ベネヴェント近郊のフラニェートで攻撃を受けたが、ボエモンはいったんターラントへ退き、今度はカラブリアの一部を反乱に巻き込んだ。ルッジェーロは再びシチリア伯の助けを求め、1089年に兄と和睦したものの、コゼンツァなどを譲らねばならなかった。その後、兄弟はコゼンツァとバーリを交換した。同年9月にはメルフィの教会会議に赴き、公位の叙任を受け、諸侯とともに神の休戦を守ると誓った。1090年から1091年にかけての冬には、コゼンツァで反乱が起こった。叔父とボエモンの支援で二か月の包囲の末に町を取り戻したが、叔父への代償として、なお保持していたパレルモの半分を渡した。
その後もカラブリアで反乱が続き、叔父と兄の軍事力を頼らざるを得なかった。1096年にはアマルフィがノルマン支配に反抗し、独自の公を立てた。ルッジェーロは町の半分を求める叔父と、ボエモンの助力を得て包囲した。しかし十字軍参加の呼びかけが広まると、ボエモンら多くの騎士が聖地へ向かい、包囲は中止された。1097年には聖地へ行くノルマンディー公を領内に迎え、その帰途にも、1099年秋から1100年春までの滞在を受け入れた。1101年には、反乱したベネヴェントの住民を抑えるため教皇を助けた。1104年にモンテ・サンタンジェロ伯グリエルモを包囲し、翌1105年にはその伯領を併合した。
ルッジェーロは1111年2月22日に死去した。フランドル伯ロベール1世の娘アレーヌとの間には三人の息子がいたが、生き残ったのは末子グリエルモだけであった。まだ未成年だったグリエルモが公位を継ぎ、母アレーヌが摂政となった。アレーヌは1115年に死去し、グリエルモは1127年までプーリア・カラブリア公を務めた。
同じ年に亡くなった人物
- ベルトルト2世 (シュヴァーベン大公) (1111年没)
- ロベール2世 (フランドル伯) (1111年没)
- モレームのロベール (1111年没)
- ボエモン1世 (アンティオキア公) (1111年没)
- オットー2世 (1111年)
同じ地域に関係する人物
- ルッジェーロ3世 (プッリャ公) (1148年没)
- ピエール1世 (アランソン伯) (1284年没)
- ゼノン (エレア派) (紀元前430年代没)
- シビーユ・ド・ブルゴーニュ (1150年没)
- マルゲリータ・ディ・ドゥラッツォ (1412年没)