伝記
フラ・アンジェリコは、初期ルネサンス期のイタリア人画家である。本名はグイード・ディ・ピエトロで、フラ・アンジェリコは「修道士アンジェリコ」を意味する通称であり、同時代にはフラ・ジョヴァンニ・ダ・フィエーゾレの名でも知られた。宗教的な題材を描く才能に優れていたことから存命中にも「福者アンジェリコ」と呼ばれ、1982年に教皇ヨハネ・パウロ2世が列福したことで名実ともに福者となった。ジョルジョ・ヴァザーリは『画家・彫刻家・建築家列伝』で「まれに見る完璧な才能の持ち主」と紹介している。
生まれは14世紀末、フィレンツェ北部のフィエーゾレ近郊ヴィッキオのルペカニーニャで、両親については何も知られていない。最初の記録は1417年に、カルメル修道会が主催する信心会に入信したというもので、そこにはすでに画家として生計を立てていたことも書かれている。修道士としての最古の記録は1423年で、フィエーゾレのドミニコ修道会に入信した際に名乗ったと思われるフラ・ジョヴァンニの名が現れる。ヴァザーリは、はじめ装飾写本画家として、兄ベネデットとともに働いていたのではないかと記している。画家ロレンツォ・モナコが師ではないかといわれ、作品にはシエナ派の影響も見られる。修道会で何度も重要な役職に就いたが創作には影響せず、絵はたちまち有名になった。1418年から1436年にはフィエーゾレの修道院で多くのフレスコ画や祭壇画を描いている。
1436年、フィエーゾレの修道院から多くの修道士とともに、フィレンツェに新築されたサン・マルコ修道院へ移った。これが画業に重要な出会いをもたらし、当時もっとも裕福な権力者コジモ・デ・メディチの知遇を得て後援を受けることになる。ヴァザーリによれば、コジモの要請で、階段上部の『受胎告知』や各部屋の壁にキリストの生涯を描いた小フレスコ画などを手がけた。1439年にはサン・マルコ修道院のために祭壇画『マエスタ』を描いた。聖人たちは宙に浮かず地上に立ち、談笑するかのような自然な姿で描かれ、この構図は聖会話と呼ばれる形式として知られるようになり、後にベリーニ、ペルジーノ、ラファエロらも数多くの聖会話を手がけた。
1445年に教皇エウゲニウス4世がサン・ピエトロ大聖堂の礼拝堂のフレスコ画のためローマへ召致した。1447年には弟子のベノッツォ・ゴッツォリとともにオルヴィエートの聖堂で制作を行い、同年から1449年にかけてはバチカンに戻り、教皇ニコラウス5世の要請で礼拝堂のフレスコ画をデザインした。聖ステファノと聖ラウレンティウスの生涯を描いたもので、制作の大部分は弟子が担ったとも考えられている。ヴァザーリは、ニコラウス5世からフィレンツェ大司教の地位を提示されて断り別の修道士を推薦したと記すが、日付が正しければ当時の教皇はエウゲニウス4世であり、話の筋は合わない。1449年から1452年にはフィエーゾレ修道院に戻って院長も務めた。1455年にローマのドミニコ会修道院で死去し、サンタ・マリア・ソプラ・ミネルヴァ教会に埋葬された。1984年にはキリスト教芸術家の守護者と認定された。
作品には保守的なゴシック様式と先進的なルネサンス様式が混在する。ウフィツィ美術館の『聖母戴冠』は最高の素材を大量に使った贅沢な祭壇画で、金箔の背景や後光はゴシックの手法だが、人物は立体感をもって描かれる。サン・マルコ修道院のフレスコ画は、マサッチオの先進性を理解しつつ、修道士部屋の壁に飾り気のない静謐な画面で祈る者の心に平穏をもたらした。
同じ年に亡くなった人物
- ピサネロ (1455年)
- ロレンツォ・ギベルティ (1455年没)
- ズビグニェヴ・オレシュニク (1455年没)
- ヘンリー・パーシー (第2代ノーサンバランド伯) (1455年没)
- エドムンド・ボーフォート (第2代サマセット公) (1455年没)
同じ地域に関係する人物
- ステファヌス8世 (ローマ教皇) (942年没)
- マリオ・ブレガ (1994年没)
- セルジオ・ソリーマ (2015年没)
- カトリーヌ・スパーク (2022年没)
- ベネディクト16世 (ローマ教皇) (2022年没)