伝記
ロレンツォ・ギベルティは、1378年に生まれた初期ルネサンスの彫刻家、金細工師である。鋳造技術では並ぶ者のない腕前を示し、その技量は今日でも賞賛されている。フィレンツェの金細工師バルトロ・ディ・ミケーレのもとで、幼い頃から細工師としての修行を積んだ。実の父が誰であったかには疑問も残るが、バルトロは彼が知る唯一の父であり、二人の関係は親密だったとされる。やがてフィレンツェの政情不安と伝染病の蔓延により、一時この街を離れたが、サン・ジョヴァンニ洗礼堂の門扉見本の製作競技のことを知って帰国した。
競技の題材は『イサクの犠牲』で、フィリッポ・ブルネレスキ、シモーネ・ダ・コッレ、ヤコポ・デッラ・クエルチャらが参加した。1402年末あるいは1403年はじめ、競技委員会はギベルティを全員一致で推薦したという。ただしブルネレスキの経歴によれば、委員会はギベルティとブルネレスキの両者を優勝として共同での製作を求めたが、ブルネレスキが辞退したと伝える。両者の作品は、今日バルジェッロ国立美術館に隣り合わせで展示されている。1403年11月にギベルティと父バルトロに門扉製作の契約が交わされたが、製作が遅れたため、大商人組合は1407年6月に契約を更新し、ギベルティ一人との契約とした。
扉の製作の合間にも仕事を重ね、1409年に金細工師組合に登録し、1414年にはオル・サン・ミケーレ聖堂の外壁の壁龕に置く洗礼者ヨハネ像を依頼されて、1416年に完成させた。1419年には同聖堂の聖マタイ像も委託されたが、あまり出来のよいものではなかったとされる。1420年代にはコジモ・デ・メディチらからサンタ・マリア・デッリ・アンジェリ聖堂の三人の殉教者のブロンズ製棺の依頼を受け、これを非常に精巧に造った。1423年に画家組合に参加し、1424年4月に完成した扉が洗礼堂の東門に設置された。この扉がアンドレア・ピサーノの作品を凌駕していると確信した大商人組合は、1425年1月に新たな壮麗な扉をギベルティに依頼した。彼は1428年から製作を始め、1452年6月に完成させた。のちにミケランジェロが「天国の門」と呼んだこの扉は、10の長方形の場面から成り、遠近法を用いた自然主義的な表現をとる。扉の壮麗さに驚いた組合は、取り付け位置を本来の北側から東側に変え、かつての扉を北側に移した。さらにピサーノ作の扉の枠の製作も委ねられ、これはロレンツォの死後に息子のヴィットリオが1463年に完成させた。
この工房は半世紀ほどフィレンツェ随一の存在となり、ドナテッロやパオロ・ウッチェロ、ミケロッツォらが育った。ギベルティはまた、サンタ・マリア・デル・フィオーレ大聖堂のクーポラの造営にもブルネレスキらとともに加わったが、ドーム下部の構造であるカテーナの建設に失敗して莫大な損失を与えたため、1432年には工事監督の任を降りたと考えられる。それでも大聖堂の造営から外されることはなく、同年、後陣内部の聖ザノービの棺の製作を依頼されている。この契約は履行されず破棄され、1439年に期限付きで結び直された。
晩年には自伝的な内容も含む『コメンターリ』を著し、1455年12月1日に世を去った。遺骸はサンタ・クローチェ聖堂に埋葬された。
同じ年に亡くなった人物
- フラ・アンジェリコ (1455年没)
- イザベル・デ・コインブラ (1455年没)
- ニコラウス5世 (ローマ教皇) (1455年没)
- ピサネロ (1455年)
- ズビグニェヴ・オレシュニク (1455年没)
同じ地域に関係する人物
- ヤコブ・フィリップ・ハッケルト (1807年没)
- ベルナルド・ブオンタレンティ (1608年没)
- Mario Luzi (2005年没)
- ベネデット・ダ・マイアーノ (1497年没)
- コジモ3世 (1723年没)