伝記
シュヴィトリガイラは、1370年より前に生まれたリトアニア大公で、1430年から1432年まで在位した。リトアニア大公アルギルダスと、トヴェリ公女ウリヤナの息子で、母のもとで正教徒として洗礼を受けた。1386年ごろ、兄ヨガイラや兄弟とともにクラクフでカトリックの洗礼を受け、ボレスワフの名を得た。生涯の大半を、従兄弟のヴィータウタス、そしてジーギマンタス・ケーストゥタイティスとの支配権争いに費やした。
1392年、ヴィテプスクをめぐって兄に反旗を翻したが、ヴィータウタスらに敗れ、所領を失ってプロイセンへ逃れたともいわれる。国外にいる間はドイツ騎士団の側に就き、1400年にリトアニアへ戻ることを許されて、ポドリアを所領として与えられた。4年後にはセヴェリアに移った。ルーシ人を母に持ち、ルーシの公家の娘アンナ・イヴァノヴナ・トヴェルスカと結婚したこともあって、ルーシ人に好意的だったと信じられている。1408年にヴィータウタスと、その義理の息子であるモスクワ大公との間で争いが起こると、彼は後者に運命を託して、セヴェリアの全都市をモスクワに引き渡し、モスクワへ亡命した。モスクワではヴォロコラムスクなどの都市と、ヴィータウタスと戦うための軍備を与えられたが、軍事の才に欠けて戦いに敗れ、エディゲの侵入を聞くと、セルプホフを略奪しながらリトアニアへ逃げ帰った。リトアニアでは反逆者として捕らえられ、クレメネツ城に9年間幽閉された。ダニイロ・オストロフスキイ公に助け出されてハンガリーへ逃れ、神聖ローマ皇帝や兄の仲介により、1420年にセヴェリアの統治者としてリトアニアへ戻ることを許された。
1430年にヴィータウタスが死ぬと、シュヴィトリガイラはただちに大公の位を求めた。公国内のルーシ人や正教徒は彼を支持したが、リトアニア人やカトリック教徒はジーギマンタス・ケーストゥタイティスを推した。最終的にはシュヴィトリガイラが勝ち、ヴィリニュスで戴冠した。彼は公国のポーランドからの完全な独立を掲げ、正教徒に重要な特権を与えはじめた。これに怒ったポーランドは戦争を始め、ポドリアの町、とくに重要なカメネツ・ポドルスク城を奪った。シュヴィトリガイラは西方に援助を求め、ドイツ騎士団のポーランドへの侵入をあおった。決定的な戦いは避け、ポーランドの要求をすべて満たす形で、ルツクで休戦に調印した。
1432年、ジーギマンタスがリトアニア人とポーランド人の支持を得て反乱を起こし、公国は荒れた。シュヴィトリガイラは首都をヴィテプスクに移し、1435年のパバイスカスの戦いで完膚なきまでに打ち破られた。キエフ、ポドリア、ヴォルィーニのルーシ人の支援が続いたにもかかわらず、クラクフへ逃げたが、彼の提案は却下され、不名誉にもワラキアに追放されて、羊飼いになったと記録されている。1440年にジーギマンタスがシュヴィトリガイラ派の貴族に暗殺されると、彼はポドリアとヴォルィーニの支配者に戻った。70歳とも80歳ともいわれる高齢で最後の闘争を起こし、1452年2月にルツクで死ぬ前に、ポドリアとヴォルィーニの領地をリトアニア国家に返還した。
同じ年に亡くなった人物
- チリアコ・ダンコーナ (1452年没)
- 文宗 (朝鮮王) (1452年没)
- ベルナト・マルトレル (1452年没)
- ゲオルギオス・ゲミストス・プレトン (1452年没)
同じ地域に関係する人物
- Halshka Hulevychivna (1642年没)
- トハイ・ベイ (1651年没)
- ムスチスラフ2世 (1170年没)
- Ipatii Potii (1613年没)
- ヤロスラフ2世 (キエフ大公) (1180年没)