伝記
レオネッロ・デステは、ルネサンス期のフェラーラ侯である。1407年9月21日に生まれ、1450年10月1日に没した。1441年から亡くなるまで、フェラーラ、モデナ、レッジョ・エミリアの侯を務めた。政治や軍事で力を振るった人物ではなく、芸術や文学、文化の庇護者として知られる。
父はニッコロ3世・デステ、母はステッラ・デ・トロメイで、父の非嫡出の3人の息子の1人として生まれた。傭兵隊長ブラッチョ・ダ・モントーネのもとで軍事教育を受け、のちにフェラーラ大学の教授となる人文主義者グアリーノ・ダ・ヴェローナに学んだ。グアリーノは、望ましい君主のあり方や統治の仕方も教えた。1425年、兄のウーゴ・アルドブランディーノが処刑されたあと、レオネッロは、ニッコロの唯一の跡継ぎとなった。1435年2月6日には、マルゲリータ・ゴンザーガと結婚し、教皇に嫡出子と認められた。マルゲリータは1438年にニッコロという子を産み、1439年に亡くなった。
父のニッコロ3世は、のちの結婚で嫡出の息子たちをもうけていたため、レオネッロを後継者とするには、その資格を示さなければならなかった。ニッコロは、レオネッロの資質、領民のあいだでの人気、教皇による正式な承認の3点を根拠に、その権利を守った。1441年の暮れに、レオネッロは父の没後に領地を継いだ。1444年5月には、ナポリ王アルフォンソ5世の非嫡出の娘で、19歳だったマリア・ダラゴーナと結婚した。この結婚は政治的なもので、マルゲリータの死後に、近隣との縁組みで力を強める好機としたものだった。ミラノとヴェネツィアの政争には中立を保ち、フェラーラの安定を図った。
この時代に、フェラーラの大学はヨーロッパで名声を得た。レオネッロは、フェラーラ初の病院の建設にも関わった。文化の面でとくに際立った人物で、レオン・バッティスタ・アルベルティは、レオネッロの依頼で『建築論』を書いた。宮廷には、ピサネッロ、ヤコポ・ベッリーニ、ジョヴァンニ・ダ・オリオーロ、アンドレア・マンテーニャ、ピエロ・デッラ・フランチェスカ、ネーデルラントのロヒール・ファン・デル・ウェイデンらの芸術家が働いた。1450年に43歳で亡くなり、父の非嫡出子のボルソ・デステが跡を継いだ。
同じ年に亡くなった人物
- アフマド・イブン・アラブシャー (1450年没)
- John Lydgate (1450年)
- Giovanni d'Alemagna (1450年)
- ベント・イェンセン・オクセンシェルナ (1450年)
- フランソワ1世 (ブルターニュ公) (1450年没)
同じ地域に関係する人物
- アルフォンソ2世・デステ (1597年没)
- エルコレ1世・デステ (1505年没)
- ルドヴィーコ・アリオスト (1533年没)
- イル・ポルデノーネ (1539年没)
- エルコレ2世・デステ (1559年没)