伝記
ヨハネス8世パレオロゴスは、1392年12月18日に生まれた東ローマ帝国の皇帝で、在位は1425年から1448年まで。マヌエル2世の長男であり、母はセルビアの王女ヘレナ・ドラガシュである。多くの弟たちとともに育ち、教育はテオドロス・カウカデノスに任された。古典の教養に通じ、乗馬や狩りを好み、武芸にも秀でていたと伝えられるが、この称賛には追従が混じっている可能性も指摘されている。
若いころから父や弟テオドロス2世を助け、1414年から1416年にかけて父がテッサロニキとペロポネソス半島に赴いた間は、コンスタンティノポリスで摂政を務めた。のちテッサロニキの統治にあたり、1417年にはペロポネソス半島のモレアでテオドロスとともにアカイア公国の勢力と戦った。最初の妻はモスクワ大公ヴァシーリー1世の娘アンナで、1414年に結婚したが、1417年8月ごろ、帝都一帯を襲ったペストで世を去ったとされる。1421年初め、老いた父は後継の準備として彼を共同皇帝に戴冠させ、その式は二度目の妻となったモンフェッラート侯の娘ソフィアとの結婚式と併せて盛大に行われた。歴史家ドゥカスによれば、容貌のすぐれないソフィアを彼は愛さず、父の死後まもなく離縁し、彼女は1426年に故国へ帰って修道女として過ごしたという。
同じ年にオスマン朝のメフメト1世が没してムラト2世が即位すると、宮廷では外交方針が割れた。マヌエル2世は穏和なムラトとの友好維持を説いたが、ヨハネスは帝国内に拘留していた王子ムスタファを擁立し、帝国を二分させて領土割譲を引き出す策を主張した。宮廷の多くが賛同し、健康を損ねていた父は「お前の好きなようにしなさい」と言って実権を譲ったという。ところがムスタファは誓約書まで出して牢を出たのに、ヨーロッパ側の君主となるや約束を破り、ムラトに敗れて処刑された。1422年7月、ムラトは大軍でコンスタンティノポリスを包囲したが、城壁に守られた帝都は持ちこたえ、復帰したマヌエル2世の外交で小アジアの反乱が起こり、包囲は解かれた。1423年にはテッサロニキとモレアがオスマン軍に攻められ、翌1424年に臣従と多額の貢納金を条件とする和平が成立した。
1425年に父が没して単独統治を始めると、当初は内政の充実に努め、弟コンスタンティノスをモレアに派遣してアカイア公国勢力を一掃させた。だが十字軍の構想は捨てず、自ら代表団を率いてフェラーラ・フィレンツェ公会議に赴いた。総主教ヨセフ2世や学者ゲミストス・プレトン、のちに枢機卿となるベッサリオンらが同行し、長い議論の末、曖昧な十字軍の約束と引き換えに東西教会の合同が成った。しかし1440年2月の帰国後に待っていたのは非難であり、署名を拒んだ府主教マルコス・エウゲニコスに多くの者が続いた。三番目の妻マリアは帰国途上の1439年12月17日に世を去っており、夫は帰国して初めてそれを知って落胆したという。
その後、1444年のヴァルナの戦いで十字軍はムラト2世に敗れ、ハンガリー王ウラースロー1世が戦死した。1446年にはモレアも被害を受け、1448年のコソヴォの戦いでも十字軍は敗れた。三度の結婚のいずれにも子はなく、後継をめぐって弟たちが争う気配のなか、指名したテオドロスは1448年6月に先に世を去り、ヨハネス自身も同年10月31日に没した。帝位はコンスタンティノスが継いだ。メディチ家邸内礼拝堂の壁画『東方三博士の旅』の三博士の一人は、公会議でフィレンツェを訪れた彼がモデルとされる。
同じ年に亡くなった人物
- アグネス・フォン・クレーフェ (1448年没)
- ウィラコチャ (1448年)
- Vidyapati (1448年)
- アドルフ1世 (クレーフェ=マルク公) (1448年没)
- テオドロス2世パレオロゴス (1448年没)
同じ地域に関係する人物
- Halil Pasha (1939年没)
- イブラヒム (オスマン帝国) (1648年没)
- ハリメ・スルタン (1623年没)
- ミフリマーフ・スルタン (1578年没)
- トゥルハン・スルタン (1683年没)