伝記
テオドロス2世パレオロゴスは、東ローマ帝国の地方統治者で、モレアス専制公(在任1407年〜1443年)である。マヌエル2世パレオロゴス帝と皇后ヘレネ・ドラガシュの次男として、1399年頃、一説には1396年頃に生まれた。1403年にコンスタンティノポリスを訪れたカスティーリャ王国の使節は、皇后が皇太子ヨハネスと年少の弟二人を伴っていたと記しており、その一人がテオドロスだった。
1407年、同名の叔父テオドロス1世パレオロゴスが亡くなると、10歳ほどの幼さでモレアス専制公に就いた。実際の統治は不可能だったため、1415年には父マヌエルが、1416年から翌年にかけては兄ヨハネス8世が、ペロポネソス半島を訪れて統治を助けた。マヌエル2世は息子の助言役として学者ゲオルギオス・ゲミストス・プレトンを指名し、プレトンはモレアス専制公領再建のための建白書を提出した。あまり実行されなかったが、テオドロスは彼の尽力に好意を持ち、いくつかの特権を与えて報いた。1417年には幼い末弟トーマースが半島に来て、テオドロスは彼を将来の共同統治者として扶養した。1418年以降は自ら政務を執り、1421年1月19日、ローマ教皇の親族であるクレオパ・マラテスタと結婚した。クレオパは、ペーザロ領主マラテスタ4世の娘で、父マヌエル2世が東西教会関係の改善の一案としてローマ側に示した縁組だった。同じころ、エピロス専制公でペロポネソス半島の一部を領有するカルロ1世トッコとの戦争を、有利に進めていた。知的な人物で、都ミストラスには当代の名のある人々が集まり、ミストラスは高い名声を得た。
テオドロスは高い知性の持ち主だったが、精神的に不安定な面があり、帝位を狙う野心を見せる一方で、修道士としての静かな生活も望んでいた。1427年、彼は兄ヨハネス8世に、突然の引退と修道士入りを申し出た。驚いたヨハネス帝は、弟コンスタンティノスを伴い急いで半島へ赴いたが、到着したとき、テオドロスは統治への意欲を取り戻していて、兄弟の関係は緊張した。翌1428年、ヨハネス帝の説得で、テオドロスはコンスタンティノスと、先に半島に来ていたトーマースと、統治権を分けることに同意した。
しかし、パトラやアカイア公国の併合という功績をあげたコンスタンティノス、トーマースとの関係は、しだいに悪くなった。特にコンスタンティノスとは、跡継ぎのないヨハネス帝の後継者の地位をめぐって公然と対立した。1436年には武力でにらみ合うところまで進み、ヨハネス帝の仲裁でようやく停戦した。1443年に最終的な決定が下され、テオドロスはモレアスにおける全権をコンスタンティノスに移して、帝位継承候補として、首都に近いマルマラ海沿岸のトラキアの領土の統治職についた。しかし、帝位への望みを果たすことなく、1448年6月27日、セリュンブリアでペストにかかり、叔父と同じく修道士テオドレトスと改名して亡くなった。兄ヨハネスの死は、その4か月後だった。
妻クレオパは1433年4月10日に亡くなっており、二人の間には娘エレニ(1428年〜1458年)が生まれた。エレニは1442年2月3日に、キプロス王ジャン2世と結婚した。
同じ年に亡くなった人物
- ウィラコチャ (1448年)
- ヨハネス8世パレオロゴス (1448年没)
- Vidyapati (1448年)
- カルロ2世トッコ (1448年)
- アドルフ1世 (クレーフェ=マルク公) (1448年没)
同じ地域に関係する人物
- パルガル・イブラヒム・パシャ (1536年没)
- ソコルル・メフメト・パシャ (1579年没)
- オスマン・ハムディ・ベイ (1910年没)
- Hanzade Sultan (1650年没)
- ジュゼッペ・ドニゼッティ (1856年没)