伝記
ベンジャミン・ブリテンは、1913年11月22日にイングランドのサフォーク州の海港で、歯科医の父ロバート・ビクターとアマチュアのソプラノ歌手の母イーディスとの間に生まれたイギリスの作曲家、指揮者、ピアニストである。のちに叙爵されてブリテン男爵となった。日本語の姓はブリトンやブリトゥンとも書かれ、原音に最も近いのはブリトゥンの表記だとされる。2歳のころにピアノに興味を抱き、7歳から習い始め、母の勧めでヴィオラも学んだ。5歳で歌曲、7歳でピアノ曲を作曲し、9歳には最初の弦楽四重奏曲を完成させたという。母は地元の合唱団の幹事を務めるほどの音楽好きで、その素質を受け継いだものとされる。
1924年10月、10歳のとき、ノーフォークとノリッジの音楽祭でフランク・ブリッジの交響組曲『海』を聴いて感銘を受け、演奏後にブリッジ本人と初めて対面した。ブリッジは少年の才能を認めて自ら指導を買って出た。1928年ごろから、ロンドンのブリッジの自宅へ、休暇を利用しながら通い、理論や和声法、対位法を厳しく学んだ。1930年には奨学金を得てロンドンの王立音楽大学に入学し、ジョン・アイアランドに作曲法を、アーサー・ベンジャミンにピアノを師事した。在学中に『シンフォニエッタ』『幻想四重奏曲』『シンプル・シンフォニー』などを生み出している。アルバン・ベルクへの弟子入りを志願したが、ブリッジや両親に反対され、1935年のベルクの急死もあって実現しなかった。
1934年に大学を卒業すると、自活のため、1935年にイギリス郵政局映画部に入り、翌年までドキュメンタリー映画の伴奏音楽を書いた。ここで台本を担当していた詩人ウィスタン・ヒュー・オーデンと知り合い、映画『石炭の表情』や『夜の郵便』を共同で手がけ、その詩による作品も作曲した。1937年に作曲した『フランク・ブリッジの主題による変奏曲』は、同年8月25日にザルツブルク音楽祭で初演され、国際的な名声をもたらした。この年にテノール歌手ピーター・ピアーズと知り合い、生涯の盟友となった。同年、母イーディスが亡くなった。
第二次世界大戦の勃発など世界情勢に危機感を抱き、1939年6月にピアーズとともにアメリカへ向かった。1942年3月までの2年半、主にニューヨークに住んで創作を続けた。1940年には、日本政府の企画した皇紀2600年の奉祝曲として『シンフォニア・ダ・レクイエム』を委嘱されたが、祝典にふさわしくないとして拒否され、演奏されなかった。1942年の春、イギリスに帰国して良心的兵役拒否を公的に認められ、オールドバラに住んで創作に専念し、オペラ『ピーター・グライムズ』が1945年の初演で大きな反響を呼んだ。1948年にはオールドバラ音楽祭を創設した。1956年に日本を訪れて、能の『隅田川』に深い感銘を受け、これが『カーリュー・リヴァー』に結びついた。1962年に初演された『戦争レクイエム』は、空襲で破壊されたコヴェントリー大聖堂の再建の献堂式のために書かれた。1960年にチェリストのムスティスラフ・ロストロポーヴィチと出会い、彼のために『チェロソナタ』と『チェロ交響曲』を作曲した。最後のオペラ『ヴェニスに死す』は1973年の作品で、心臓を悪くしていた彼は同年に手術を受け、以後は車椅子を使って暮らした。1976年には音楽家として初めて終身貴族に叙せられ、同年12月4日、オールドバラの自宅でうっ血性心不全のため死去した。63歳であった。
同じ年に亡くなった人物
- ウルリケ・マインホフ (1976年没)
- グエン・ゴック・ト (1976年没)
- ピンハス・ラボン (1976年没)
- Justin McCarthy (1976年没)
- リッティク・ゴトク (1976年没)
同じ地域に関係する人物
- Elizabeth Jane Howard (2014年没)
- エリザベス・ギャレット=アンダースン (1917年没)
- エレナ・バルタチャ (2014年没)
- John Charles Ryle (1900年没)
- ハヴロック・エリス (1939年没)