伝記
ジギスムントは、1368年2月15日にニュルンベルクで、神聖ローマ皇帝カール4世とその4番目の妃エリーザベトの間に生まれた。異母兄ヴェンツェルと同じくドイツ語とチェコ語の二言語で育ち、後にフランス語、ラテン語、ハンガリー語、イタリア語なども学んだ。1378年に兄がボヘミア王位を継ぐと、ブランデンブルク辺境伯を兄から継いだ。ハンガリー王ラヨシュ1世の娘マーリアとの結婚も取り決められていた。
1382年にラヨシュ1世が世を去ると、遺言ではマーリアがジギスムントと結婚し、両王国を共同統治することになっていた。しかしポーランド貴族は、ルクセンブルク家が宿敵ドイツ騎士団の支援者だったため、マーリアの妹ヤドヴィガを女王に推して同君連合を解消した。ハンガリーでも継承をめぐる混乱が続き、ジギスムントはブランデンブルクを担保に派兵して反乱を鎮め、1385年9月にマーリアと結婚した。だが大貴族の多くは反対し、ナポリ王カルロ3世を担いで攻め込ませた。内戦の末にマーリアは幽閉され、その釈放と引き換えに、ジギスムントは大貴族と同盟して統治する義務を負わされた。1387年3月に彼はようやくハンガリー国王として即位した。
課題はオスマン帝国への対策だった。ジギスムントは各地に呼びかけ、教皇の十字軍勅書も得て、多くの将兵が集まった。ジギスムントはブダに敵を引きつけて消耗させる案を示したが、ブルゴーニュ公ジャンの積極策に押され、1396年のニコポリスの戦いでバヤズィト1世に大敗した。ジギスムントは辛くも逃げ延びた。帰国後は国内の改革に取り組み、大貴族に対抗して国内外の有能な人物を登用し、1401年には一時ブダ城に監禁されたが、救出された。1405年ごろ(1408年とも)にはツェリェ伯ヘルマン2世の娘バルバラと再婚して王位の正統性を補強し、アドリア海沿岸のスロヴェニアを得た。1409年には一人娘のエルジェーベトが生まれた。1408年には対オスマン戦に向けてドラゴン騎士団を創設した。1417年にはハンガリー国王が司教や大司教を任命する権利を教皇から認められた。
1410年にローマ王ループレヒトが没すると、ジギスムントは帝国諸侯からローマ王に選ばれ、翌1411年に共同統治王を称したヨープストが死去して単独の王となった。ただしこの間にハンガリーの統治は疎かになり、ジギスムントは1420年にダルマチアをヴェネツィアに割譲して、アドリア海への出口を失った。1414年にはコンスタンツ公会議を開いて教会大分裂の解決を図ったが、この会議で異端として有罪となったヤン・フスの身の安全を約束しながら、フスを火刑に処した。このためボヘミアの人々の不満が高まり、1419年にヴェンツェルが没してジギスムントがボヘミア王位を継ぐと大反乱が起こり、フス戦争となった。ジギスムントは何度も軍を送ったが、ヤン・ジシュカの指揮する義勇兵の前に敗れ続けた。
1433年5月31日に神聖ローマ皇帝として戴冠し、1436年にボヘミア貴族に王位を認められたが、翌1437年、ズノイモで病没した。ルクセンブルク家の男系男子は絶え、王位はジギスムントの一人娘エリーザベトの婿である、オーストリア公アルブレヒト5世が継いだ。
同じ年に亡くなった人物
- ジョーン・オブ・ナヴァール (1437年没)
- ニッコロ・ニッコリ (1437年没)
- ジェームズ1世 (スコットランド王) (1437年没)
- キャサリン・オブ・ヴァロワ (1437年没)
同じ地域に関係する人物
- カール・フェルディナント・フォン・エスターライヒ=テシェン (1874年没)
- ヨハン・ハインリヒ・フォン・ルクセンブルク (1375年没)
- ヨーゼフ・ヨーハン・アダム (1732年没)
- ルイーゼ・フォン・バーデン (1811-1854) (1854年没)
- マックス・ドヴォルシャック (1921年没)