伝記
チャールズ・ロートンは、1899年7月1日にイギリスのヨークシャーのスカーボロで生まれた舞台俳優、映画俳優、映画監督である。『ヘンリー八世の私生活』の演技で、アカデミー主演男優賞を受けた。両親はヨークシャーでホテルを営み、母は敬虔なアイルランド系のカトリック教徒だった。母の意向で地元の男子校に短期間通ったのち、イギリスの名門イエズス会系の学校に送られた。第一次世界大戦に従軍し、毒ガスを浴びたという。戦後は家業のホテルで働きながら、スカーボロでアマチュア劇の舞台にも関わっていた。
家族の許しを得て、1925年に王立演劇学校の学生となり、金メダルを得ている。クロード・レインズも教師の一人だった。1926年4月28日にロンドンの劇場でロシアの喜劇の端役を演じ、初めてプロの舞台に立った。チェーホフの劇で古典的な役を演じて観客に強い印象を与え、1928年にはアガサ・クリスティの劇『アリバイ』で、史上初めて探偵エルキュール・ポワロを演じた。同年、のちに妻となる女優エルザ・ランチェスターの出演する短い無声喜劇にも出ている。1929年に『ピカデリィ』で映画デビューを果たした。1931年にはニューヨークで舞台に立ち、アメリカでの初舞台を踏むと、すぐに映画の出演依頼が舞い込んだ。
1932年にハリウッドに招かれ、最初の映画『暗黒の家』に出演した。この年にはセシル・B・デミル監督の『暴君ネロ』で皇帝ネロを演じて、その名を広く知られるようになり、H・G・ウェルズ原作の『獣人島』では、狂気の科学者モロー博士を演じた。自分の歯科医をモデルにした役だったという。以来、アメリカでは主に映画俳優として、イギリスでは舞台俳優として活躍した。1933年には『ヘンリー八世の私生活』でアカデミー主演男優賞を獲得した。また、バウンティ号の叛乱を扱った1935年の大作では、艦長ブライ役でサディスティックな人間像を見せた。1933年から翌年にかけてはロンドンのオールド・ヴィック劇場の座組に加わり、マクベスやヘンリー八世、プロスペロなど、シェイクスピア劇の4役を演じた。1936年にはパリのコメディ・フランセーズの舞台に、英国の俳優として初めて立ち、モリエール劇の一幕をフランス語で演じて喝采を浴びた。自身の映画会社メイフラワー・ピクチャー・コーポレーションを立ち上げ、1937年にはエーリッヒ・ポマーを招いた。
1950年にアメリカの市民権を得た。1955年に『狩人の夜』で映画監督デビューしたが、公開当時は不評で、彼が監督したのはこの1本だけに留まった。主演のロバート・ミッチャムは、ロートンを最も素晴らしい映画監督だと称えた。その後は、再び俳優の仕事に専念した。舞台では、聖書からジャック・ケルアックの新作まで幅広い範囲を朗読する会を長年続けて成功した。舞台監督としての手腕も卓越し、バーナード・ショーの劇『地獄のドン・ファン』のブロードウェイ初演などが高く評価された。弟子筋にはアルバート・フィニーがおり、声の抑揚を説明するのにビリー・ホリディのレコードを聴かせたという。女優のモーリン・オハラは、18歳の時に彼に見出された。1962年12月15日に死去した。
同じ年に亡くなった人物
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