伝記
チャールズ・ライト・ミルズは、1916年8月28日、アメリカのテキサス州ウェイコで生まれた。父チャールズ・グローヴァーは保険ブローカーで、仕事のために一家は絶えず引っ越していた。母フランシス・アーシュラ(旧姓ライト)は主婦である。両親はアイルランド系とイギリス系の血を引く敬虔な中流の人々で、ミルズはウェイコのカトリック教会で聖歌隊の少年を務めたが、生涯キリスト教への嫌悪を抱き、のちには無神論者を自任した。ダラスの工業高校では工学に興味を持ち、両親は急速に工業化が進むテキサスで実務的な職に就かせるつもりで彼を育てていた。
1934年に高校を卒業すると、父に勧められてテキサスA&M大学に入ったが、雰囲気を「息が詰まる」と感じて1年で去った。移ったテキサス大学オースティン校では、人類学、社会心理学、社会学、哲学を学び、1939年に社会学の学士と哲学の修士の学位を得た。卒業の時点で、すでに二つの主要な社会学の専門誌に論文が載っていた。1937年には同じ大学の学生ドロシー・ヘレン(愛称フレイヤ)と結婚した。彼女は夫が大学院を終えるまで生活を支え、博士論文のタイプや編集も引き受けた。この大学で、ドイツからの政治的亡命者で社会学教授のハンス・ガースと出会い、授業は取らなかったものの、師であり親友となった。二人はマックス・ウェーバーの著作の翻訳と編集を共同で行い、社会心理学の教科書『性格と社会構造』も共著した。
ウィスコンシン大学で社会学の博士号を得た。学位論文は『プラグマティズムの社会学的考察』で、審査委員会が修正を求めたが応じず、のちに委員会の承認なしに受理されたという。メリーランド大学では社会学の準教授を務めた。高血圧のため身体検査に落ちて徴兵を猶予され、戦時中には歴史家のリチャード・ホフスタッターらと親しくなり、戦争とアメリカ社会について論じ合った。1940年に妻と離婚したが、翌年復縁し、1943年1月15日に娘パメラが生まれた。大学にいる間にも、雑誌に「ジャーナリスティックな社会学」の記事や意見を寄せるようになった。
第二次世界大戦後の1946年から没年まで、コロンビア大学の教授を務めた。出世作『ホワイト・カラー』では、新中間層が増えた理由を述べ、その政治的無関心を指摘した。続く『パワー・エリート』(1956年)では、政治・経済・軍事の各分野の頂点に立つ人々が、利益の一致から協力して大衆を操作していると分析し、アメリカ社会の支配構造を激しく糾弾した。この権力層は、必ずしも階級とは関係なく、制度化されたポストに就く人々だとした点で、マルクス主義的な定式化とは異なる。『社会学的想像力』(1959年)では、パーソンズを頂点とする構造機能主義の正統派を批判し、一人の人間の生活と社会の歴史は両者を共に理解しなければ、どちらも理解できないと説いた。この本は1998年に国際社会学会によって、20世紀で2番目に重要な社会学書に選ばれた。1960年の「新左翼への手紙」でアメリカに「新左翼」の語を広め、キューバを扱った『キューバの声』も書いた。1962年3月20日に没したが、急逝のため、マルクス主義への接近にもかかわらず、理論的な統合は実現しなかった。
同じ年に亡くなった人物
- ダニエル・アレヴィ (1962年没)
- アフメト・ハムディ・タンプナル (1962年没)
- ジョルジーナ・デ・アルブケルケ (1962年没)
- エレノア・ルーズベルト (1962年没)
- ジョージ・ポージ (1962年没)
同じ地域に関係する人物
- クリストファー・リーヴ (2004年没)
- ジョージ・ボンハーグ (1960年没)
- ブランチ・スウィート (1986年没)
- クリスチャン・H・F・ピーターズ (1890年没)
- パトリシア・ケネディ・ローフォード (2006年没)