伝記
アラン・バートレット・シェパード・ジュニアは、1923年11月18日、アメリカ合衆国ニューハンプシャー州デリーに生まれた。父アラン・B・シェパードは地元の国立銀行に勤め、その銀行は祖父の所有だった。父は1915年に州兵に入り、第一次世界大戦ではフランスで戦い、第二次世界大戦でも召集されて中佐に達した。母はポーリン・レンザ・エマーソンで、ポーリンという妹がいた。一家はメイフラワー号で渡ったイギリスのピューリタン、リチャード・ウォーレンの子孫とされる。
学業の成績はよく、小学校の途中で飛び級をした。1936年に父も学んだ私立のピンカートン・アカデミーに進み、そこで卒業まで過ごした。幼いころから飛行機に魅せられ、模型飛行機のクラブを作り、1938年のクリスマスには贈り物としてダグラスDC-3に乗った。翌年からはマンチェスターの空港で雑用をしては、見返りに飛行機に乗せてもらったり、操縦の手ほどきを受けたりした。1940年に卒業すると、陸軍に入るよう望む父の意に反して海軍を選んだ。アナポリスの海軍兵学校の試験には楽に合格したが、16歳で入学には若すぎたため、まず予備校のファラガット・アカデミーに送られ、1941年に修了した。知能検査では高い値を示したが、成績は平均的だったという。兵学校ではヨット競技に熱中し、数々のレースに勝った。1942年の年末休暇にはイリノイ州のプリンシピア・カレッジで妹と過ごし、そこでルイーズ・ブリューアーと知り合った。戦時下で四年の課程が三年に短縮され、1944年6月6日に915人中463位の席次で卒業して少尉に任官し、翌月にはルイーズと秘かに婚約した。
1944年8月に駆逐艦コグスウェルに配属され、太平洋で任務に就いた。8月30日に乗り組み、その2日後には、日本の潜水艦に魚雷を受けた巡洋艦レノの乗員172人の救助を助け、同艦の帰港を護衛した。戦争が終わると1946年に海軍の航空士官となり、1950年からテストパイロットとして、各種の新型戦闘機の試験飛行を重ねた。1959年に米航空宇宙局の最初の宇宙飛行士の一人に選ばれ、後に「ライトスタッフ」と呼ばれる集団に加わった。マーキュリー計画の最初の7人の一人である。1961年5月5日、マーキュリー3号「フリーダム7」で、アメリカ人として初めて宇宙に出た。飛行は15分28秒の弾道飛行で、約468キロ先の大西洋に着水し、地上との交信はリアルタイムで報じられた。この飛行でコリアー・トロフィーを受けた。ソ連のガガーリンに次ぐ二人目の宇宙飛行者であり、宇宙船を手動で操縦した最初の人物でもあるとされる。
ジェミニ計画の最初の有人飛行で船長に予定されたが、1963年にメニエール病と診断されて飛行を外れ、1963年11月から1969年7月まで宇宙飛行士室の室長を務めた。病気は1969年の手術で治り、アポロ14号の船長に任命された。1971年2月、アポロ計画で最も正確とされる月面着陸を果たし、月面に降り立った5人目の人類となった。47歳で、月面を歩いた人としては最高齢であり、月面でゴルフをして世間を沸かせた。1971年6月から1974年7月に海軍と宇宙飛行士室を退くまで、再び室長を務め、海軍少将で退役した。のちは複数の企業の役員として、不動産や銀行の事業で財をなした。1998年7月21日、白血病に関連する合併症で亡くなった。英国のSF人形劇『サンダーバード』のトレーシー家の五男アランの名は彼にちなむとされ、2007年に就役した海軍の貨物弾薬補給艦にもその名がつけられた。
同じ年に亡くなった人物
- ジェラール・グリゼー (1998年没)
- ジャン・ルレイ (1998年没)
- モーリス・シューマン (1998年没)
- エディ・ラビット (1998年没)
- アルーン・タジェフ (1998年没)
同じ地域に関係する人物
- サミュエル・ゴールドウィン (1974年没)
- ベニー・グリーン (トロンボーン奏者) (1977年没)
- Mary Anderson (2014年没)
- J・ウォーレン・ケリガン (1947年没)
- レイ・エバンズ (2007年没)