伝記
アンドロニコス・パレオロゴスは、1400年に生まれた東ローマ帝国の皇族で、テッサロニキ最後の専制公である。父は皇帝マヌエル2世パレオロゴス、母は皇后ヘレナ・ドラガシュで、ヘレナはセルビア公コンスタンティン・ドラガシュの娘であった。兄にはのちに父の跡を継ぐヨアニス8世と、モレアス専制公セオドロスがおり、弟には最後の東ローマ皇帝となるコンスタンディノス、ともにモレアス専制公となったディミトリオスとソマスがいる。
幼いころ、彼は兄コンスタンディノスと2人の姉妹の命を奪った病気を生き延びたが、完全には回復せず、生涯にわたって病弱であった。わずか5歳のとき、父から専制公に任じられ、亡くなった従兄ヨアニス7世パレオロゴスの後任としてテッサロニキの統治を任されたといい、1408年から1423年まで専制公を務めたとされる。年が若かったため、1415年か1416年までは、将軍デメトリオス・ラスカリス・レオンタリオスが摂政をつとめた。
1421年に兄ヨアニス8世が父の共同皇帝となったころ、東ローマ帝国はオスマン帝国と対立していた。そのため1422年にオスマン軍はコンスタンティノポリスを包囲し、テッサロニキも1422年から1423年にかけて長い封鎖を受けた。当時、オスマン帝国の脅威は都市に迫り、彼は防衛に尽力したが、度重なる攻撃にさらされた。包囲され、健康の悪化も重なったアンドロニコスは、都市をヴェネツィア共和国に引き渡すための外交を始めた。全住民の支持を得たわけではなく、ラテン人を信用しない教会は反対したが、交渉の結果、1423年にヴェネツィアの軍勢が都市に入った。この譲渡は、ヴェネツィアとオスマン帝国との一連の戦争の最初のものを引き起こす一因となった。ヴェネツィアの支配も長くは続かず、オスマン帝国は1430年にテッサロニキを征服した。
テッサロニキを手放したあとの運命ははっきりせず、伝えは食い違う。ヴェネツィアのモロジーニ写本には、アンドロニコスが都市をトルコ人に引き渡そうと企てたと記され、1423年11月に陰謀が発覚して、彼と支持者は追放され、彼はモレアスのナフプリオンへ、支持者はクレタ島のシティアやアンドロス島などへ送られたという。ところが東ローマの歴史家たちは陰謀への関与に触れず、彼の最期を別々に記している。カルココンディリスはモレアスのマンティネイアで亡くなったとし、スパンドゥーギノスはヴェネツィアへ向かう船の上で亡くなったとする。スフランゼスは、コンスタンティノポリスのパントクラトル修道院で修道士となり、1429年に亡くなって父のそばに葬られたと述べ、ほかにはアトス山のヴァトペディ修道院で修道士となって亡くなったとする説もある。1429年3月4日に没し、修道名はアカリオスだったともいわれる。子は数人あり、そのなかのヨアニスは1419年に専制公として名が見える。
同じ年に亡くなった人物
- シャー・ニーマトゥッラー・ワーリー (1429年没)
- Alexios IV of Trebizond (1429年)
- Symeon of Thessalonica (1429年)
- イブン・アル=ジャザリ (1429年)
- アル=カーシー (1429年没)
同じ地域に関係する人物
- Andronikos Palaiologos (1250年没)
- ミカエル9世パレオロゴス (1320年没)
- アエロポス1世 (紀元前576年没)
- アガソナス・ヤコヴィディス (2020年没)
- デメトリオ・ディ・モンフェラート (1227年没)