HISTORICAL PERSON · 1872年没

ベニート・フアレス

先住民族から選出された初のメキシコ大統領。自由主義派の指導者としてレフォルマ戦争を戦い、フランスの介入とマクシミリアン帝政に抗戦して共和制を復活させた。20ペソ紙幣に肖像が描かれる。

生涯
1872年没
死亡地
メキシコ合衆国(メキシコシティ)
出生地
メキシコ合衆国(サン・パブロ・ゲラタオ)
出典
世界地図
メキシコ合衆国(メキシコシティ)

伝記

ベニート・パブロ・フアレス・ガルシアは、1806年3月21日にオアハカ州のサン・パブロ・ゲラタオで生まれたメキシコの政治家であり、先住民族から選出された初のメキシコ大統領である。両親はサポテカ族の農民で、父はマルセリーノ、母はブリヒダといった。ゲラタオという地名は、サポテカ語で「深い夜」を意味するという。両親は彼がごく幼いころに相次いで亡くなり、母は妹を産むときに世を去ったとされる。きょうだいとともに祖父母に引き取られたが、祖父母も数年のうちに亡くなり、やがて叔父に預けられた。12歳まで畑の見張りや羊飼いとして働き、叔父からスペイン語の手ほどきを受けたものの、村には学校がなく、あまり上達しなかった。町で学ぶ者は都会へ出て下働きをしていると知って、彼は都会に出たいと願い、1818年12月17日、オアハカへ向かった。当時スペイン語は話せず、教育も受けていなかった。

オアハカでは家政夫として働きながら猛勉強した。フランシスコ会士のアントニオ・サラヌエバが彼の熱心さと知性に感動し、神学校で学べるよう支援した。のちに妻となるマルガリータ・マサは、彼が最初に身を寄せた家の主人の養女である。神学校に進んだものの、神職ではなく法律を学ぶことを決め、1827年に神学校を卒業して法律の勉強に進んだ。1834年に弁護士となり、1842年には裁判官になった。1847年から1853年までオアハカ州知事を務めたが、サンタ・アナの腐敗に反対したため逮捕、投獄され、釈放後はアメリカ合衆国に亡命して、ニューオーリンズの葉巻工場で働いた。

1855年に帰国して自由主義派の軍に加わり、アルバレス大統領のもとで法務大臣に任命された。軍人や僧侶の特権を廃止する法案を提出したが、保守層の反発を受け、ローマ教皇ピウス9世からも破門された。1857年に保守派が武力蜂起して内戦(レフォルマ戦争)が始まると、自由主義派の指導者となって、1858年に臨時政府の大統領に就いた。内戦で自由主義派が勝利した後、1861年1月にメキシコシティに入り、3月の選挙で大統領に選ばれた。

在任中の1861年10月、債権国のイギリス、スペイン、フランスがメキシコへの武力干渉を決め、イギリスとスペインは彼の債務返済の提案を受け入れて撤退したが、フランスは干渉を続け、1863年6月にメキシコシティを占領した。彼は北部のパソ・デル・ノルテ(現シウダー・フアレス)で抵抗を続けた。1864年にはオーストリアのマクシミリアン大公がナポレオン3世の要請で皇帝に即位し、恩赦と首相の地位を示して彼を取り込もうとしたが、彼は断固として拒み、アメリカ合衆国の支援を受けて徹底抗戦した。1867年3月にフランスは撤退し、6月19日にマクシミリアンは処刑された。7月15日に共和制の復活を宣言し、12月の選挙でポルフィリオ・ディアスを破って再選された。

民主主義と先住民への平等な権利を導入し、カトリック教会の政治への影響力を弱めた。1872年7月18日、国立宮殿で執務中に心臓発作で死去した。「他者の権利の尊重こそが平和である」という彼の言葉は長く語り継がれ、メキシコの「建国の父」として敬愛されている。誕生日の3月21日は祝日で、20ペソ紙幣に肖像が描かれる。シウダー・フアレスの町名のほか、メキシコシティの国際空港もその名を冠する。

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