伝記
シャルル6世は、1368年12月3日にパリの王宮で生まれ、1422年10月21日に没したフランス・ヴァロワ朝の第4代国王で、在位は1380年から1422年までである。第3代国王シャルル5世と王妃ジャンヌ・ド・ブルボンの長男で、親愛王、また狂気王と呼ばれた。生まれた時点で兄は皆亡くなっており、王太子となった。1380年9月に父が没して王位を継ぎ、11月にランスの大聖堂で戴冠した。
即位したのは11歳のときである。当時、王族は14歳で成人とされたが、その後も摂政による統治が続いた。実権を握ったのは、父の弟であるブルゴーニュ公フィリップ、アンジュー公ルイ、ベリー公ジャンと、母の兄ブルボン公ルイである。アンジュー公は1384年に没し、ベリー公は政治に関心を示さず、ブルボン公は重んじられなかったため、ブルゴーニュ公が圧倒的な力を持った。1388年、シャルルは親政を開始し、父の有能な顧問団マルムゼを復権させた。叔父たちは遠ざけられ、統治は国民の尊敬を集め、広く親愛王と呼ばれるようになった。
だが、その名声は、20代半ばで精神病を発症すると、すぐに失われた。病は母方の血筋を通じて遺伝した可能性がある。最初の兆候が現れたのは1392年である。友人で助言者のオリヴィエ・ド・クリッソンが暗殺されかけたと知り、実行犯を罰しようと執念を燃やした。犯人がブルターニュ公国に逃げ込み、公が引き渡しを拒むと、戦争の準備に取りかかった。記録によれば、彼は病的に興奮し、支離滅裂な言葉を発していた。8月の暑い朝、軍勢とともにル・マン近郊の森を通ったとき、ぼろをまとった男が現れ、王の馬の手綱をつかんで「戻りなさい、あなたは裏切りにあっている」などとわめいた。正午に森を抜けた後、小姓が落とした王の槍がヘルメットに当たって大きな音をたてた。それを聞いたシャルルは剣を抜き、「裏切り者に突撃せよ」などと叫んで、味方の騎士に襲いかかり、数名を殺害した。取り押さえられた彼は、昏睡状態に陥った。
以後、生涯にわたって発作を繰り返した。1393年の発作では、自分の名も国王であることも思い出せず、王妃を「この者」と呼んで出て行かせようとしたという。1405年には、入浴と着替えを5か月にわたって拒み続けた。ときには体がガラスでできていると思い込み、壊れないよう鉄の棒を服に縫い付けたと伝えられ、のちにガラス妄想として知られた。1393年1月28日には、王妃が開いた仮装舞踏会で、王は他の4人の貴族と「森の野蛮人」に仮装して踊ったが、王弟オルレアン公ルイが持ち込んだ松明が衣装に燃え移り、4人が火傷で死亡した。王はベリー公妃のガウンの裾で守られ、助かった。
1400年ごろまでに統治は不可能となり、宮廷は、王妃イザボーに近いブルゴーニュ派と、王弟オルレアン公を中心とするアルマニャック派に分かれて争った。1407年にブルゴーニュ派が王弟を暗殺した。この状況を見たイングランド王ヘンリー5世が介入し、1415年10月のアジャンクールの戦いでアルマニャック派は大敗した。1418年にはブルゴーニュ派がパリに入り、アルマニャック派の領袖が殺された。1419年9月、王太子シャルルの側近がブルゴーニュ公ジャン無怖公を暗殺した。1420年4月のトロワ条約により、ヘンリー5世は王女カトリーヌと結婚し、王の死後は王太子ではなくヘンリー5世がフランス王位を継ぐと定められた。ヘンリー5世は1422年8月に先に没し、シャルル6世も10月21日に病死した。治世は42年に及んだが、そのほとんどは家臣団やイングランドに左右された。
同じ年に亡くなった人物
- ヨハン4世 (メクレンブルク公) (1422年没)
- タッデーオ・ディ・バルトーロ (1422年)
- マリー・ド・ブルゴーニュ (1386-1422) (1422年没)
- 太宗 (朝鮮王) (1422年没)
- ヘンリー5世 (イングランド王) (1422年没)
同じ地域に関係する人物
- マルセリーヌ・ロリダン=イヴェンス (2018年没)
- ルイ16世 (フランス王) (1793年没)
- ジャック・シャルル・ブリュネ (1867年没)
- フィリップ5世 (フランス王) (1322年没)
- Ricardo Guiraldes (1927年没)