伝記
太宗は、李氏朝鮮の第3代国王で、本名を李芳遠という。1367年6月13日に、のちの太祖となる李成桂の五男として生まれた。母は神懿王后韓氏である。幼いころから聡明で冷静な人物として知られ、父を補佐した。1383年(1382年とも)に高麗の科挙に合格して任官した。威化島回軍のころには、開京に残っていた家族の身辺を守った。1392年4月、父の簒奪に反対した鄭夢周が、李成桂の負傷を機に一派の除去を図ると、これを探知した芳遠が鄭夢周を暗殺した。この功績で、7月に朝鮮王朝が成立すると靖安君になり、有力な後継者に浮上した。
しかし、父の継妃神徳王后と功臣の鄭道伝にけん制され、世子には立てられなかった。1398年、これに不満を抱いて私兵を動員し、鄭道伝らを斬殺して政権を握り、父を退位に追いやった(第一次王子の乱)。次兄の定宗が第2代の王に立てられたが、私兵の廃止や論功行賞をめぐって対立していた四兄の李芳幹が反乱を起こした(第二次王子の乱)。反乱は鎮圧され、国内に芳遠に対抗できる武力をもつ勢力はなくなった。1400年1月に王世弟の地位に就き、同年11月、身の危険を感じた定宗から譲位を受けて、第3代の王となった。
即位後は王権の強化と中央集権をはかった。私兵を廃止し、議政府を最高機関として、その下に六曹を置いた。土地の税制を改め、隠れていた土地が見つかって国の富は倍になった。議政府が決めた事項は王の承認があって初めて効力をもつと定め、大臣たちの議論だけで物事が決まる慣行をなくして、王権を高めた。地名は山や川などの自然を表す漢字が入るものに改めた。1401年には、宮殿の前に大きな太鼓を置き、無念を抱く民が打ち鳴らして王に訴える「申聞鼓」の制度を作り、楮貨を発行した。塩の専売では、塩と交換できるものに、布のほか米や雑穀を加えた。1402年に咸鏡道で趙思義らの乱が起こり、苦戦したが鎮圧した。1403年には明の永楽帝から朝鮮王に冊封され、鋳字所を設けて金属活字による印刷に成功した。1405年には、首都を再び漢陽に移し、現在のソウルが首都として定着する土台を築いた。1406年には寺院の特権を大幅に削って仏教の勢力を抑え、儒教を国の思想とした。人の移動を管理する号牌の制度も整えた。
1407年に元敬王后の弟の閔無咎と閔無疾を、1415年には閔無恤と閔無悔を賜死させ、元敬王后との関係は悪化した。1418年6月、長男の譲寧大君は勉強せず身持ちが悪いとして、三男の忠寧大君(世宗)を世子に立て、2か月後に王位を譲って上王となった。しかし王権の安定のため、兵権はなお握り続けた。同年12月、世宗の義父の沈温が、兵権の掌握に不満を示したとして賜死させられた。1419年には対馬への出兵を命じ、約10日の攻撃で船129隻を奪い、家1,939戸を焼いた(応永の外寇)。
1422年5月、寿康宮で病により亡くなった。享年55。当時は大旱魃のさなかで、民の苦痛を案じ、「余が死んで鬼になれば、神々に私の民を助けてくれと頼もう」と遺言したという。亡くなるとすぐに雨が降り、命日の5月10日が来るたびに雨が降るため、人々はこれを「太宗雨」と呼んだ。陵は献陵である。
同じ年に亡くなった人物
- ヘンリー5世 (イングランド王) (1422年没)
- コンスタンティン2世 (1422年)
- シャルル6世 (フランス王) (1422年没)
- タッデーオ・ディ・バルトーロ (1422年)
- ミシェル・ド・フランス (1422年没)