伝記
マリー・ド・ブルゴーニュは、サヴォイア公アメデーオ8世の妻で、サヴォイアの初代公妃となった女性である。1386年9月にディジョンで、ブルゴーニュ公フィリップ・ル・アルディと、フランドル女伯マルグリット3世の四女として生まれた。長兄はブルゴーニュ公ジャン・サン・プール、次兄はブラバント公アントワーヌ、弟はヌヴェール伯とルテル伯のフィリップである。長姉マルグリットは下バイエルン=シュトラウビング公ヴィルヘルム2世の妻、次姉カトリーヌはオーストリア公レオポルト4世の妻である。
父フィリップは、マリーが生まれたときから、隣り合う公国の関係を近づけるため、サヴォイア伯アメデーオ7世とボンヌ・ド・ベリーの子アメデーオ8世との結婚を考えていた。結婚契約は、生まれた年の1386年11月11日に、現在のオランダのスロイスで結ばれた。このとき、マリーは生後2か月、アメデーオは3歳だった。1391年にアメデーオ7世が亡くなると、新しい伯の祖母と母のあいだで摂政の座をめぐる争いが起こり、フィリップはその解決にも関わった。1393年10月30日には、シャロン=シュル=ソーヌで代理人による結婚が行われた。このとき花嫁は7歳、花婿は10歳だった。対面の結婚式は、1401年10月27日(5月とも)に、アラスで行われた。マリーは15歳(14歳とも)だった。だが、マリーがサヴォイアに着いたのは、17歳になった1403年9月だった。持参金は金貨10万フランで、4回に分けて支払われることになっていたが、全額が支払われたのは婚約から48年後の1434年だった。
1405年から子が生まれ始め、夫妻には少なくとも9人の子が生まれた。1405年生まれのマルゲリータは1418年に亡くなり、1407年と1408年生まれの2人のアントーニオは幼いうちに亡くなった。1411年生まれのマリーアは、1427年にミラノ公フィリッポ・マリーア・ヴィスコンティと結婚した。1412年生まれのアメデーオはピエモンテ公となったが、1431年に亡くなった。1413年生まれのルドヴィーコは、1434年に父の退位を受けてサヴォイア公を継ぎ、1432年にアンヌ・ド・リュジニャンと結婚した。1415年生まれのボナは、11歳でブルターニュ公フランソワ1世と婚約したが、結婚式の前に15歳で亡くなった。1417年生まれのフィリッポはジュネーヴ伯となった。1420年生まれのマルゲリータは、1432年にアンジュー公ルイ3世と結婚し、のちに再婚と再々婚をした。
1416年、神聖ローマ皇帝ジギスムントにより、夫は伯から公に昇格を許され、1418年にはピエモンテ公の称号も与えられた。そのためマリーも公妃を名乗ることになった。彼女は、トノン=レ=バンのリパイユ城に鳩小屋を置き、鳩のほか、鹿や羊、さらにチータまで集めたという。サヴォイアの印章には、鷹を手にして馬に乗る姿が描かれている。音楽にも関心があり、オルガンを弾くことができた。信仰深い夫は、多くの歌い手や楽士を宮廷礼拝堂に連れてきた。
マリーは1422年10月2日(8日とも)に、トノン=レ=バンで亡くなった。36歳だった。遺体は、サヴォイア家の人々が葬られるオートコンブ修道院に葬られた。夫のアメデーオ8世は再婚せず、1439年から1449年にかけてフェリックス5世を名乗って教皇位を主張し、対立教皇とされた。1451年1月7日に67歳で亡くなった。
同じ年に亡くなった人物
- Mustafa Celebi (1422年)
- 太宗 (朝鮮王) (1422年没)
- Jelena Nelipcic (1422年没)
- ヨハン4世 (メクレンブルク公) (1422年没)
- ミシェル・ド・フランス (1422年没)
同じ地域に関係する人物
- オスカー・クルマン (1999年没)
- ジルベール・デュラン (2012年没)
- シャルル=エマニュエル (1595年没)
- フェルナン・ブローデル (1985年没)
- カイホスロ・チョロクアシヴィリ (1930年没)