伝記
ヴィッキイ・バウム(ヴィキー・バウム)は、1888年1月24日にウィーンのユダヤ人の家に生まれたオーストリアの作家である。母マティルデは精神の病を抱え、ヴィッキイがまだ子どものうちに乳がんで亡くなった。父は銀行員で、暴君的で心気症の人物だったと伝えられ、1942年にノヴィ・サドでハンガリー占領軍の兵士に殺された。裕福な市民の家庭で幼少期を過ごし、8歳でハープを習い始め、およそ6年間、ハープ奏者として専門的な教育を受けた。ウィーン音楽院で学び、ウィーン音楽協会の演奏会にも出た。10代のころにはすでに趣味で小説を書きはじめていた。
最初の結婚は短命で、相手のジャーナリストのマックス・プレルスを通じてウィーンの文学界に導かれ、初期の短編のいくつかは夫の名前で発表された。離婚後の1916年に、幼なじみの指揮者リヒャルト・レルトと再婚し、二人の息子をもうけた。夫に従って、ハノーファーやマンハイムなどドイツの各地を転々とし、その間にオーケストラのハープ奏者や、音楽教師として働いた。第一次世界大戦中には看護婦も務めた。やがてハープ奏者としてのキャリアをあきらめ、1926年にベルリンに落ち着くと、ウルシュタイン社の雑誌編集者として働きはじめた。1920年代の終わりにはボクシングを習い、トルコ人のボクサー、サブリ・マヒルのジムに通った。のちの回想録によれば、そこに来る女性はマレーネ・ディートリヒら数人だけだったという。
最初の著書『幼い日の影』は、31歳だった1919年に出版された。その後はほぼ毎年のように新作を発表し、『化学科学生ヘレーネ・ヴィルフュア』が最初の大きな商業的成功となって、10万部以上を売った。1929年には、文学的な飛躍をみせた小説『ホテルの人びと』を発表した。材料を集めるため、約6週間、ベルリンの二つのホテルでメイドとして働いたという。同年にマックス・ラインハルトの演出で戯曲化され、大きな反響を呼び、ウィリアム・ドレイクによる英語版(1930年)と、映画『グランド・ホテル』(1932年)も大成功を収めた。この映画はアカデミー賞最優秀作品賞に選ばれ、バウムの世界的な名声が確立した。ホテルを舞台にした小説という型を世に出した作品とされる。
ドイツでナチズムの影響が強まるなか、映画の脚本を書くために招かれたのを機に、家族とともにアメリカへ移住し、ロサンゼルス周辺に住んで、ハリウッド映画の原作や脚本などの仕事に専念した。ナチス時代のドイツでは、彼女の作品は発禁となった。1938年にアメリカ市民権を得て、1941年の『船と岸』以降はすべて英語で書き、2、3年おきに小説を発表し続けた。1935年にはバリ島の画家ヴァルター・シュピースのもとに滞在し、1906年のバドゥン王国のオランダに対する戦争とププタンを描いた『バリ島物語』(1937年)を著した。生涯に50以上の作品を書き、そのうち10以上がハリウッドで映画化されている。近代における初のベストセラー作家の一人と考えられている。1960年8月29日、白血病のためロサンゼルスで72歳の生涯を終えた。回想録『すべてはまったく違っていた』は1964年に出版された。1999年にはウィーンの一角が彼女にちなんでヴィッキイ・バウム広場と名づけられ、2009年にはベルリンの通りにも名がつけられた。
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