HISTORICAL PERSON · 1960年没

イーゴリ・クルチャトフ

ソ連の核物理学者で、ソ連の原子爆弾開発プロジェクトの責任者。1939年にソ連で初めてサイクロトロンを完成させ、核物理学研究グループを指揮した。

生涯
1960年没
死亡地
ロシア連邦(モスクワ州 / Barvikha)
出生地
ロシア連邦(Sim)
出典
世界地図
ロシア連邦(モスクワ州)

伝記

イーゴリ・ヴァシリエヴィチ・クルチャトフは、1903年1月12日にロシア帝国ウファ県のシムスキー・ザボド(現在のチェリャビンスク州シム市)で生まれ、1960年2月7日にモスクワで没したソ連の核物理学者である。ソ連の原子爆弾開発計画を指揮し、「ロシアの原爆の父」と呼ばれた。

父ヴァシリー・アレクセーエヴィチは測量技師で、ウラル山脈で森林官の助手を務めたことがあり、母マリヤ・ヴァシリエヴナは教区司祭の娘で、学校の教師であった。三人きょうだいの二番目で、1912年に一家はクリミアのシンフェロポリに移った。姉アントニーナがクリミアで亡くなった後は、弟ボリスとともに育ち、ギムナジウムではマンドリンを弾いた。第一次世界大戦のころは、兄弟で働いて家計を支え、腕のよい溶接工になって、蒸気機関に興味を持ち、技師になることを望んだという。クリミア大学で物理学を学び、実験の腕前で評判を得たのち、アゼルバイジャンのバクーの工科大学で助手の職を得た。そこで電気伝導の実験を発表すると、客として来ていたアブラム・ヨッフェに認められ、1925年にレニングラードのヨッフェ物理学技術研究所に招かれた。ヨッフェに師事して放射能などの研究に取り組み、並行して造船学も学んだ。1927年にマリーナ・シネリニコワと結婚したが、子はなかった。早くから才能を認められ、1932年には彼の率いる核物理学の研究グループに独自の予算が与えられた。1939年9月21日には、ソ連で最初のサイクロトロンの研究を始めている。

1941年に独ソ戦が始まると、船舶を磁気機雷から守る研究や、戦車の装備の研究に携わった。1943年、ソ連は原子爆弾の実現可能性に関するイギリスの極秘文書を入手し、スターリンは原子力計画の開始を命じた。ヨッフェはモロトフにクルチャトフを推薦し、当時40歳とまだ若いクルチャトフが、計画の指揮を執ることになった。スターリンが開発を命じた理由には、核分裂に関する論文が西側の雑誌から消えていることに気づいたゲオルギー・フリョロフの手紙もあった。計画は当初遅れたが、スパイのクラウス・フックスがもたらした西側の開発状況や、広島と長崎への原爆投下を受けて、スターリンは1948年までの完成を命じ、計画を悪名高いベリヤの指揮下に置いた。科学者は強い圧力を受ける一方で、生活上の優遇も与えられた。クルチャトフは計画が成功するまでひげを剃らないと宣言し、以後は長いひげが彼のトレードマークとなった。1948年にはソ連共産党にも入党した。

1949年8月29日、カザフ共和国のセミパラチンスク核実験場で、ソ連最初の核実験(プルトニウム型原爆)が成功した。クルチャトフは、失敗すればスターリンの命で銃殺されることも覚悟していたという。爆弾の名についてベリヤに問われて、「わが国は自力で成し遂げた」と答えたことが、実験名の由来とされる。その後は水爆の開発にも携わったが、おもに原子力の平和利用の研究に専念し、核実験にも反対の立場をとるようになった。控えめな性格と広い博識を買われ、フルシチョフから科学技術政策の顧問になるよう依頼されて承諾したが、その直後に脳血栓で急逝した。遺体はモスクワの赤の広場に葬られた。彼が率いた研究所は、のちにクルチャトフ研究所となり、元素名や鉱物名、月のクレーターなどにもその名が残る。

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