伝記
ヴィルヘルム・ハインリヒ・ヴァルター・バーデは、1893年3月24日に生まれたドイツの天文学者で、英語読みのウォルター・バーデの名で一般に知られる。星の種族の発見で名高い観測天文学者である。ドイツ中西部のシュレッティングハウゼン(現在のビーレフェルト)に、教師の子として生まれた。1912年に学校を終えると、ミュンスター大学とゲッティンゲン大学で数学、物理学、天文学を学び、1919年に学位を取得した。しばらく数学者フェリックス・クラインの助手を務めたのち、ハンブルク天文台に勤め、彗星や小惑星、星団、変光星、銀河などを観測した。1920年には小惑星(944)ヒダルゴを発見している。この小惑星は長い軌道周期をもち、のちにケンタウルス族と呼ばれる天体の最初の例となった。正確な観測に裏打ちされた論文を数多く書いたことで、ロックフェラー財団の奨学金を得て、1926年から2年間、アメリカのウィルソン山天文台で研究した。のちに常勤研究員に推薦され、1931年に妻とともにアメリカへ移住した。1937年にハンブルク大学が天文台長の後任として彼を望んだが、断っている。
ウィルソン山では、決められた天域の標準星の等級を較正する研究に取り組んだ。当時の写真による測光は誤差が大きく、天文学者を悩ませていたため、エドウィン・ハッブルとともに大望遠鏡で初めて標準星の光電測光を行い、データの精度を高めた。1930年代から40年代にかけては銀河や球状星団を精力的に観測し、フリッツ・ツビッキーと共同で、超新星を新しい種類の天体と位置づけ、超新星爆発によって中性子星が作られることを初めて示した。
第二次世界大戦が始まる少し前、彼はアメリカの市民権を申請するための書類を発行してもらったが、転居を繰り返すうちに紛失し、役所の手続きが好きでなかったのか、そのまま放置していた。戦争が始まると敵国人とされ、天文台のあるパサデナから出ることを制限されたが、天文台での観測だけは許された。研究者の多くが戦争に動員されたため望遠鏡を使える時間が増え、灯火管制でロサンゼルスの市街光が減ったことも、観測に理想的な環境となった。こうして1944年、ウィルソン山の100インチ望遠鏡で、アンドロメダ銀河とその伴銀河の中心部を個々の星に初めて分解することに成功した。この観測を通じて、恒星には二つの種族が存在することを発見し、のちに種族Ⅰと種族Ⅱと呼ばれた。同じ観測から、セファイド変光星にも二つの型があることを見いだし、これを使って宇宙の大きさを計算し直して、1929年にハッブルが出した値の約2倍だと算出した。この結果は、1952年にローマで開かれた国際天文学連合の総会で発表され、大きな驚きを呼んだ。
1948年にパロマー山天文台に当時世界最大の口径200インチのヘール望遠鏡が建設されると、アンドロメダ銀河の研究を始め、500個以上のセファイドを発見した。共同研究者のヘンリエッタ・スウォープが変光周期と光度曲線を決定した。1950年代にはルドルフ・ミンコフスキーとともに新分野の電波天文学にも取り組み、電波源の光学対応天体を同定した。はくちょう座A、カシオペヤ座Aなどがその例である。生涯に10個の小惑星を発見し、アポロ群の(1566)イカルスや、アモール群の(1036)ガニメドもその中にある。1954年に英国王立天文学会のゴールドメダル、翌年にブルース・メダルを受けた。1959年にドイツへ戻り、1960年6月25日にゲッティンゲンで亡くなった。月のクレーターや「バーデの窓」にその名が残る。
同じ年に亡くなった人物
- ヌット・エネマルク・イェンセン (1960年没)
- ユッシ・ビョルリング (1960年没)
- ホセ・アントニオ・アギーレ (1960年没)
- ルイス・バーンスタイン・ネイミア (1960年没)
- マック・セネット (1960年没)
同じ地域に関係する人物
- エルザ・レントシュミット (1969年没)
- ホルスト=ディーター・ヘットゲス (2023年没)
- ロベルト・エンケ (2009年没)
- ヨゼフ・チャペック (1945年没)
- ダーヴィト・ファブリツィウス (1617年没)