伝記
ウラジーミル・イリイチ・レーニンは、本名をウラジーミル・イリイチ・ウリヤノフといい、1870年4月22日(ロシア暦4月10日)にロシア帝国のシンビルスクで生まれ、1924年1月21日に没したロシアの革命家・政治家・哲学者である。ボリシェヴィキを率いて1917年の十月革命を成功させ、世界史上初の社会主義政権を樹立した。ソビエト連邦の創設者で、初代の最高指導者であり、1922年のソ連の成立を指導した。父イリヤは、カザン帝国大学で物理学と数学を学んだ教育者で、シンビルスク郡の小学校視学官に任命され、450校以上の学校の設立を監督した。没後の1886年に遺族は貴族に昇格した。母マリアは、ユダヤ系ロシア人の父とドイツ・スウェーデン系の母の間に生まれ、ルーテル教会の信徒として育てられた。母方の曽祖父モシュコ・ブランクは、キリスト教に改宗した元ユダヤ人商人で、その息子の一人が母方の祖父である。両親は子供たちを厳しく育て、家庭内で政治の議論を避けた。ウラジーミルは3番目の子で、特に妹オルガと親しく、気性が荒く競争心が強かったが、自分の間違いは認めることが多かった。
1879年にシンビルスク古典中高等学校に入学し、最優等生となった。校長は、のちに臨時政府首相となるケレンスキーの父フョードルで、生徒が革命思想に触れないよう、公共図書館の利用を禁じた。1887年、皇帝暗殺計画に関与した兄アレクサンドルが処刑されると、革命思想に染まった。学生運動に参加してカザン大学を放校され、1893年にサンクトペテルブルクに移ってマルクス主義活動家となり、1897年に扇動罪で逮捕されて、シベリアの寒村に流刑となった。刑期が終わると西ヨーロッパに移り、ロシア社会民主労働党の幹部として頭角を現したが、同党は1903年に、レーニン派のボリシェヴィキとマルトフ派のメンシェヴィキに分裂した。1914年に第一次世界大戦が始まると、これを資本家による帝国主義戦争と定義し、戦争を全ヨーロッパ的なプロレタリア革命へ転化することを提唱した。
1917年の二月革命で帝政が崩壊し、臨時政府が樹立されると、封印列車で帰国して、ボリシェヴィキの指導者として反臨時政府運動を展開した。十月革命で体制を転覆し、自らが首班のソビエト政権を樹立した。ソビエト政権は、社会主義的改革を行う一方、ブレスト=リトフスク条約を結んで第一次世界大戦から離脱した。1918年にボリシェヴィキの一党独裁体制を確立し、党名を「ロシア共産党(ボリシェヴィキ)」に改めた。また秘密警察チェーカーが指揮する赤色テロを開始し、反対派を大規模に弾圧した。1919年に世界革命を推進するためコミンテルンを創設し、内戦で赤軍が白軍に勝利した後はポーランドに侵攻して、革命の波及を試みたが失敗した。1921年には、大飢饉に端を発した騒乱の拡大に対応して、戦時共産主義から新経済政策(ネップ)への転換を進めた。
1921年ごろから健康は著しく悪化し、静養のため、クレムリンを離れることが多くなった。1922年12月にソ連が建国されると、その行政府の初代議長に選出された。グルジア問題などをめぐってスターリンとの対立を深め、口述筆記させた文書の中で、党書記長からスターリンを解任するよう求めた。1923年に3度目の脳卒中を起こすと、意思疎通に困難をきたした。1924年1月21日、ゴールキの邸宅で意識不明となり、そのまま死去した。遺体は防腐処理を施されて、赤の広場の霊廟で一般公開された。著作に『帝国主義論』などがあり、その思想はレーニン主義として継承された。
同じ年に亡くなった人物
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