伝記
ジャン1世・ド・ヴァロワは、1385年に、アランソン伯ピエール2世とマリー・ド・シャマイヤールの息子として、エセ城で生まれた。「賢公」と呼ばれる。ヴェルヌイユ、フジェール、ドンフロン、ラ・ゲルシュの領主で、ボーモン子爵であり、フランスの同輩衆の1人でもあった。1396年には、ブルターニュ公ジャン4世の娘マリーと結婚した。夫妻には、のちに5人の子が生まれた。
若いうちに父の跡を継ぎ、1404年にアランソン伯位とペルシュ伯位を受け継いだ。当時のフランスは、シャルル6世の周囲で諸派が争う混乱のなかにあった。ジャンはオルレアン公ルイを支持し、ヴェルマンドワにあるブルゴーニュ派の領地を荒らした。ついでサン=ドニとサン=クルーの攻略にも加わった。国王がブールジュでベリー公とブルボン公を包囲していたとき、国王はルイ・ダンジューをジャンに差し向け、ジャンは国王に服従を誓わざるをえなくなった。その後は国王に従って、コンピエーニュ、ノワイヨン、ソワソン、バポーム、アラスの包囲に加わった。国王はバポームの前でジャンを騎士に叙し、1414年にはアランソンを公爵領に昇格させた。ジャンはこの家系で最初に公の位を名乗った人物となった。
1415年、イングランド王ヘンリー5世がフランスに侵攻し、両軍はアジャンクールで対峙した。ジャンはフランス軍の第2陣を指揮した。イングランド軍が第1陣を突破すると、ジャンは反撃に出た。ヨーク公エドワードを討ち、グロスター公ハンフリーに傷を負わせ、ヘンリー5世の兜の王冠から飾りを斧で切り落としたと伝えられる。ジャンはヘンリー5世の護衛に取り押さえられ、降伏しようとしたところを、ウェールズの貴族ダフィド・ガムに殺されたとも、弓兵に刺されたともいわれる。10月25日のことであった。祖先がクレシーで見せた無謀さを、この日の彼も示したと評される。
遺体は、セーのサン・マルタン修道院に運ばれて葬られた。妻マリーとの間の子のうち、ピエールとマリー、ジャンヌは幼くして亡くなり、シャルロットも結婚しなかった。ジャン2世(1409年生)がアランソン公位を継いだ。ジャンには、ほかに数人の愛人との間の庶子もおり、ピエールはギャランドン領主となって1424年に亡くなった。
同じ年に亡くなった人物
- アントワーヌ (ブラバント公) (1415年没)
- マヌエル・クリュソロラス (1415年)
- エドゥアール3世 (バル公) (1415年没)
- マイスター・ベルトラム (1415年)
- ヤン・フス (1415年没)
同じ地域に関係する人物
- アンソニー・ワイルディング (1915年没)
- マックス・インメルマン (1916年没)
- Ignace Kowalczyk (1996年没)
- エリザベート (ヴェルマンドワ女伯) (1183年没)
- アラン=ルネ・ルサージュ (1747年没)